なぜ、世界中の、あらゆる、民族、社会、国家、組織で、行事、イベントが重んじられているのか。
行事を重んじているのは、封建国家だけではない。
民主主義国だって、共産主義国だって、王国だって、未開社会だって儀式は重んじられている。
それは、儀式の目的、意義を考えればわかる。
儀式は、人々の思いを一つにする。
儀式を軽んじる、社会、国、組織は、一体感が薄れ、衰退し、やがて、自然消滅する。
なぜ、日本だけが、儀式は封建的だと否定されたのか?
その理由も無意味で、面倒くさいからと。
それこそ、暴力団だって、秘密結社だって、労働組合だって、儀式を重んじるのに、なぜか、今の学校は儀式を軽んじるように教育する。国家主義とか、軍国主義とか言いて。なぜか。
敗戦後の日本人は儀式というと、何かおどろおどろしい、危険な香りがするように思いこまされている。
しかし、日本以外の国では、儀式は、華やかで、厳粛で、輝かしく、栄光に満ち、音楽や踊り、催し物にあふれ、お祭りであり、みんなが楽しみにしている事である。
典型は、クリスマスである。クリスマスの式典も儀式であり、アメリカ大統領の就任も儀式であり、野球やオリンピックの開会式も儀式である。
日本人にとって儀式は自分達の生活や伝統から生み出された事ではない。
戦争に敗けて、日本人は、儀式の魂、本源を見失ったのである。
今の日本人にとって儀式は形骸でしかない。
ありがたくもなんともない。
今の日本人にとって儀式は自分達の魂の叫びから発した事ではない。
神聖な事ではない。だから、今の日本人は儀式を怖れるのである。
言葉で言い表せない事を、形にするのが、儀式であり、贈り物。
だから心を込めて準備する。
心が籠っていなけれな意味がない。
心無い、情けないならやらないほうがいい。
心がないから、いい加減で、適当になる。
いい加減で、適当な事が、全体に伝わる。
儀式によって、全体の気を引き締める、気を新たにする。
気を改める。気分を一新する。
儀式をいい加減にすると逆効果になる。
儀式は、社会や組織全体に、始まりや、決意、決定など伝え、知らしめるのが主たる目的で。
全体の行動や考え方、意志を整え、統制を保つ、けじめをつけるための手段である。
儀式そのものに意味があるわけではなく。儀式を、誰が、どのようにするかによって意味が持たされる。
儀式によって全体の行動を整え、意思統一を図る。
だから、儀式では、リーダーの思い考え、組織の思想が核となる。
儀式によって、リーダーの考え、構想、組織の思想を全体に浸透させる。
民主主義、自由主義こそ、儀式が重要な役割を果たし、鍵となっている。
なぜなら、民主主義や自由主義は人ではなく、思想がコアとなっているから。
儀式というのは、仕事に対する、自分たちの決意、仲間たちへの誓、約束、志、目的、目標、使命等を形に表す事で、皆の意志を一つに纏める。
儀式によってけじめをつけ、心を一つにして目標を実現するための活力、気合を入れる。
喜びや悲しみを共にする。
理想や構想を形にして共有する。自分たちの決意を内外に知らし、宣言する。
変革をしたければ儀式を変えればいい。
儀式を変えなければ、いくら革新的な方針を打ち出しても、参加者は保守的な反応をする。
言葉は言葉、儀式は行動。
人は言葉より行動を見る。行動によって動かされる。
儀式がなければ、仕事も生活も、人生も。
なんとなく、始まって、漠然と終わる。
だらだらとけじめなく始まり、いい加減に終わる。
責任もなく、まとまりもなく終わる。
総てが無意味で、無自覚な事になる。
全体も部分もなく、故に、自分の立ち位置もわからなくなり。
役割も、実績も評価されない、自己満足な事になる。自分さえ善ければいい。
他人がない。
喜びも、悲しも、共有できない。
公(おおやけ)がなくなる。その結果、私もない。
儀式は、神事であり、契、誓、約束、誓約、契約であり、お披露目、宣言、始まり、終わりであり、確認である。清め、裁き、禊である。仕切、けじめでもある。
祝い、記念、記憶でもある。
儀式によって結束させ、士気を高め、意志を統一し、決意を固め、けじめを付ける。
儀式は心を一つにする。
儀式によって心を一つにする。
儀式は冠婚葬祭。
記念日、節目に儀式をする。
儀式は、仕事や生活のリズムを整える。
結納、仮祝言、結婚式、銀婚式、金婚式。
命名式、お七夜、お宮参り、七五三、成人式、還暦、そして葬式。
儀式に生病老死あり。
入学式、入団式、入社式、卒業式、退会式。
出陣式、キックオフ、開所式、開会式、閉会式。
和解式。
新年会、初詣、お盆、大晦日。
創立記念日。建国式。
地鎮祭、棟上式、竣工式。起工式、進水式、竣工式。
クリスマス。
儀式で互いを固く結びつけるのが、結婚式。
儀式が簡単になれば、簡単に別れてしまう。
別れる時は、一つひとつを解きほどかなければならない。
何に対して、誰と誰が、誰を証人とし、何を誓い、誰に、宣言、確認し、誰に知らせ、誰に広めるのか。
儀式を省いたら残るのは、届出だけ。
儀式は、面倒くさい。
面倒くさくしている。
面倒くさい事に意味がある。
面倒くさい事を一つ一つ克服することで関係が強くなる。
面倒くさいからこそ絆が強くなる。
簡単にやれば、簡単だという事が伝わる。
手を抜けば、手を抜いていいと伝わる。
丁寧にやれば、重要性が伝わる。
真剣にやれば緊張感が伝わる。
質素にやれば姿勢が伝わる。
清潔にやれば清潔になる。
神聖にやれば厳かになる。
いい加減にやれば、いい加減になり。
適当にやれば適当となる。
儀式が堅苦しく感じるのは、堅苦しくしているからで。
儀式がよそ事に感じるのは、自分が主体的にかかわっていないからで。要するによそ者だから。
儀式がよそよそしく感じるのは、自分の思いや決意が込められていないから。
儀式は、本来、自分たちの意志で生み出す事。
アメリカだって、フランスだって建国記念日は自分たちの儀式なのだ。
建国記念日をよそよそしく感じる国民は、建国の理念を共有していない。異邦人。
健康を祝っていない。
それが儀式。
最近の結婚は、手続きも省略する。
面倒くさいと。
届け出もしなければ、いつでも、別れられる。喧嘩しただけでも。
誰のため?
結婚式は、誰のため。
列席する人、それぞれ、目的があり、目的が違う。
新郎新婦の為だけではない。
仕事も同じ、メール一つ、立ち話で決めたことはメール一つで。
特に誰も見てない処で二人で決めた事は、話の話で終わる。
それで言った言わないというのは、何もわかっていない。
誰も証人がいないで、記録もなければ、はじめからない事になる。
儀式は創作。
儀式は自分達の思いを伝える場。
自分たちの構想、思想を発表する場。
運動会、学園祭等のイベントの企画、準備、実施、後片付けを通じて、チームワークを学び、組織の実態を学び構築する。
儀式がなければ、仕事の実際を表現する場、予習する場がない。
儀式に必要なのは、シンボルであり、演出であり、構成であり、役者・配役であり、シナリオであり、筋書き・ストーリーである。
何の考えもなければ、総てが形骸化する。
名はシンボルの一つ。だから、命名に意味を持たせる。名前を考える。
なぜ、何を目的とした儀式なのかは、演出に表れる。
何を言いたいのかは構成に、どうしたいのかは配役に、誰が主役か、組織の実体は役者を見ればわかる。
段取りは、シナリオ、主旨、目的、構想は、筋書・ストーリーとして表現される。
根本に、自分たちの思い、考えがなければ、魂が籠らない。
創立記念日も、建国の日も、終戦記念日も、自分たちの原点を見直す機会。
休日を増やす口実ではない。
言い伝え、伝承すべき事がある。
儀式で重要なのは、儀式の根底ある思想で、なぜ、何のため、目的で、何に対して、誰がとり行うのかで。
なぜ、何のためなのかを、話し合い、打ち合わせる過程で儀式の意義を儀式を主催し、準備する者たちの間に浸透させ、共有させることである。また、そこにこそ意義がある。
何に対して誓うのか。決意を示すのか。見せるのか。
そこに儀式の本義が隠されている。
生まれた時と場所、国、親は選べない。
でも、愛する人、信じる友、学び舎、同志、会社は自分の意志で選べる。
だから、入門、入学、入社、入団の時、儀式が設けられる。
それは、誓いと決意を表すための儀式。(桃園の誓い)
儀式の本源は、思いであり、誓いであり、決意である。
形ではない。
思いや誓い、決意を形に表しただけだ。
形によってしか表せないから、形にするのだ。
そこに儀式という形に表す意味がある。
魂は、肉体を通じて外に表される。
魂のない肉体は、ただの骸。
時がたてば腐ってしまう。
しかし、魂は肉体を通じなければ外界、他者とつながりが持てない。
だから、肉体が大切なのだ。
人の思い決意は魂。儀式は肉体。
魂を忘れたら、肉体は生きない。
儀式が形骸化するのは、人々の思いや決意が失われたからだ。
人々が変革を求めるのならば、儀式を画期的な事にするべきだ。
結婚式にも、仏前、神前、人前、教会と使うべきシンボルは違ってくる。
唯、いずれにしても自分を超越した聖なる存在に儀式は捧げられるのである。
要は、自分たちは何を信じ、何に絶対的価値を置いているかの問題。
それによって儀式の形式が定まる。
シンボルについて語り、決めることは、儀式の本義を明らかにすること。
神なのか、同志なのか、人民なのか。
神聖なる事を忘れたことで儀式の役割働きは、薄れてきたのである。
賢者は儀式を作り、愚者は儀式に囚われる。
儀式、組織には、主従がつきもので、主従の関係は悪い事ではない。
むしろ、主従の関係を明らかにすることが大切である。
役割にも主と従があり。
誰が主で、誰が従かを事あるごとに見極める事である。
役割分担をする時、誰が主で、従かを明らかする事が肝心。
誰が主役にして、誰をわき役とするか。
儀式は自分達で作っていくものだよ。
なぜなら、自分たちの考え、思えを表現する事だもの。
自分たちのやり方で自分たちの考えを存分に表せばいいので。
人の目を気にしたり、人の物まねしてたら、自分たちの儀式ではないもの。
自分たちがこれからやりたいこと、自分たちの心情、志を象徴しているのだから。
封建的なら封建的な、自由なら自由に、質素な会社にしたければ質素に、派手な会社にしたければ派手に。
合理的な会社にしたければ合理的に、ワンチームにしたければワンチームでやればいい。
だから、儀式は、自分たちのやりたいように作っていけばいいけど。
儀式を軽んじると、軽くなるし。いい加減にすれば、いい加減な会社になるし。
適当にやれば適当になる。
儀式を面倒くさいと怠れば、段々、消えていく。
なぜなら、儀式は、みんなの思いが作るものだから。
儀式は、文化。儀式は文化を作る。
儀式の本質は儀式に参加する者の心であり、思いである。
意味も解らず、心も籠らない、ただ、今までやってきたから、去年もやっていたからという理由だけでやる儀式は、弊害、有害でしかない。
魂のない躯、形骸でしかなく過去の亡霊に操られているに過ぎない。
日に新たに、日々に新たに。
同じようにやりたいなら、同じ様にやればいい。
ただ、なぜ同じようにやるのかを明らかにしないと。
意味もなく、過去を踏襲していることは、変化を意味もなく拒絶しているにすぎない。
それは老化。
同じことをやるにしても、考えがなければ。
儀式は、伝統に基づくだけではない。
伝統を打ち破るのも儀式。
気を籠めれば心となり。
心となれば命が生まれ。
命が生まれれば、魂が入り。
魂が入れば、神宿る。
何事も、気を籠める事と。
そうすれば、普遍の魂が。
自分が死んでも、名は残る。
魂がですね、悠久の時間を生き抜くと思うのです。
その為に、儀式があり、故に儀式は、神事となる。
人々の喜び、悲しみ、決意が儀式の根本にある。
だからこそ、儀式を作り出す者達は、語り合わなければならない。
自分達がどんな思いで、何をしようとしているのかを。
心から祝う気もないのに結婚式をしても、無意味である。
大人として認めた証が成人式で、大人として扱えないのなら成人式の意味はない。
言葉では伝えられない思いや考えを伝える。それが儀式。
文化は、下に手向けられた一輪の花から始まったと聞いたことがある。
儀式は、死者に手向けられた一輪の花のような事なのかもしれない。
人の思いが儀式の本源。
儀式の本質は、みんなの思いであり気持ちである。
思いや、心が凝縮したところに儀式は、成立する。
だから、儀式には、ドラマがあり、ストーリーがある。
儀式は、神話や伝説を作り。
神話や伝説となり。
そして、儀式は、神話や伝説に基づくようになる。