信仰が持てるかという事ですが。
私は、信仰を持たざるを得なくなると思う。

意識が拡大、進化、深化するにつれてアイデンティティ、統一性が求められてきます。
そうしないと、全体が保てなくなり、制御が難しくなり、分裂する。

アイデンティティを保とうとすると、必然的に、自分とは何者なのかという問いにぶつかる。
自己の目覚めです。

問題は、何を唯一、絶対とするか
自己確立しようとすると、認識の前提として、自己の唯一性、絶対性を前提としなければならなくなる。
しかし、ただ、自己を唯一絶対としたら自己以外は虚しくなる。

自己の外にある存在や世界が無意味になるからで。
なぜなら、認識は自他の関係の中から生じるので。
つまり、自己の外にある存在や世界を前提としなければ分別はつかない。
無限ループに陥る。
莫大なエネルギーを消費しても、答えは出ない。
自己の外に唯一絶対な存在を前提としなければならない。
それを神と名付ける。

そうしないと論理の大前提が定まらない。
初期設定ができない。
全体としての統一性が保てないうえ分別、意識が生まれない。

自律性を求めるならなら、倫理観なんて押し付けるなんてできない。
なぜなら、倫理観は自己の内部で形成されなければ効用をはっきしないからで。
倫理観を押し付けることは、自分を神とすることだからです。

倫理観なんて自他の関係の中にすでに組み込まれている。
だから、パターンでしか認識できない。

前提条件と状況、条件、それと構造的な事ですね。 そして相互関係の中で設定される、構造的な事で。 だから、神を必要とするし。 ​

アイデンティティや統一性を保つためにまず”自己”の確立ですね。
”自己”というのは内面の世界を言います。
内面の世界は、外の世界を前提とします。内と外ですね。

つまり、内の世界の統一性の保つためには、”自己”を唯一絶対としなければ成り立ちません。
しかし、絶対的としたら分別はできません。絶対というのは分別を受け付けないからです。

つまり相対とは背反の関係にある。
例えば、”絶対という事は、絶対にない”という命題のように。
ですから”自己”を設定したら、自己の外に自己を超越した唯一絶対な世界。

大前提は、認識は不完全で完全にはなりえない。
なぜなら、完全無欠な存在を認識するためにあえて完全性を破綻させた相対化したからです。
不完全だから識別できるので。
完全無欠にしたら、認識できなくなる。
だから、不完全であることを問題にするのではなくどう認識するかを問題とする。
なぜ何のために認識しようとしたのか。
認識は合目的的行為で。
目的によって制約されているからです

自分を律するための最大の制約条件は、自己保存ですよね。
それをすれば自己否定、自滅するか否か。
自己矛盾を引き起こすことは存在意義からしておかしい。
自殺行為は神の意志に反している。
なぜなら、生きる事が究極的な目的ですから。
自分が守れなくなるようなことはすべきではない。

殺してはならないとかいう倫理は、自己保存に矛盾する事がありますからね。
正当防衛という事がある。そこが難しいのですよ。
その裏に殺せという命令もですね。
反作用からすれば、殺されるという行為の根拠になりますから。
でも基本は自分身を守るという事で。
そうなると何から何を守るかが基本要件となるのではないですか

何を守るかですね。
その優先順位を明らかにし。
明確な基準を作っていく事ですか

そして、正し事をする事です。

人間が持続可能が難しいとしたら、不正な事をするからだと思いますね。
だから、何が正しいかそれを見極められれば、持続は可能なんでしょう

何が正しいのか。
それが難しい。
例えばエネルギーにしても、私はプロパンガスを扱っていますが、プロパンガスは何度もこの国の危機を救ってきた。今でもですね。
ところがいつでもプロパンガスは邪険に扱われてきました。
原子力や再生可能エネルギー、電力、エネルギーもたくさんあって何が今一番いいエネルギーか。
戦争も然りです。戦っている者は、みな自分が正しいと言い張っています。
でもトータルに考えて何が正しいのかそれをリードできたら。

だから正しい事と一口に居ても一概に決めつけられません。
だから、総合的に見て何が正しいのかそれをリードできるかどうかがカギだと思いますね。

所詮。
倫理は要約すれば、正しい事なんですよ。
ただ、何が正しかと聞かれると。
普遍的、不変的、絶対的に正しいと言えることがない。
そりゃそうですよ、認識は相対的で、不完全な事を前提としているんですから。
だから人が間違うのは不可避。
そこで神が必要とされる。

そういう事で、何が正しかではなくて、何が正しかを追求し続ける事が大切で、その時、限りなく正し事に近似させることができる。
微積分のようにです。

その時、発散から収束へと向かう事が可能なので、何が正しいのかという基軸ですね。
そして何を守るのかの基軸この二本柱があれば。

下手にべき論ではなくて仕組みであり構造ですね。機能ですよ肝心なのは

汝殺すなかれという結論ではなく。
何が正しいかという前提に沿って、何を守るべきかという命題に沿ってその時その時、条件や状況に合わせて答えを導き出す。
それが、倫理的枠組みだと私は思います。

神は語らない。ただお示しになるだけだ。
事実をつき詰めれば、おのずと正しい方向に収束する。
それこそが神に意志であり、人間の決めた尺度など所詮相対的で、不完全。

そんなものに囚われるくらいなら、神を信じる事だと。