倫理とは、自己を制御するための働きや基準を体系化した規範。
このような規範は、相対的な体系であり。絶対的、普遍的な体系ではない。
平時と戦場、非常の時、個人で行動する時と集団で行動する時、また、時代や政治体制、宗教など前提条件や環境、目的によって変化する。
職業によっても倫理は違ってくる。
医者には医者の倫理がある。
教育者には教育者の倫理があり。
八百屋には八百屋の倫理がある。
僧侶には僧侶の倫理があり。
兵士には兵士の倫理がある。
だって兵士に人殺すなとは言えない。
しかし、兵士も人間であり、戦場以外では人としての倫理を求められる。
倫理とは自分を自制するための働きや基準を体系化した規範で。
明文化された事ではない。
倫理は最初から完成された形で与えられるものではない。
養育者からの刷り込みと肉体的、生理的欲求によって基礎が形成され、経験によって洗練されていく。
人は、人以外倫理は持てないと決めつけている。
野生の動物を道理をわきまえない獣という。
豚に真珠、猫に小判というけれど。
豚は真珠の為に仲間を欺いたりはしない。
猫は小判の為に仲間を殺したりはしない。
だとしたら、人と豚や猫。どちらが、真珠や小判の真の価値を知っているといえるのだろうか。
ウィルスだって、鳥だって、植物だってですよ、森ですら自立できなければ存在できない。
つまり自制できない者は存在できない。それが定めで。人間だけが自制しているわけではなく。
猿だって鳥だって群れを成すものは群れを自制している。
倫理とはそういう事で、倫理を人以外持てないとするなら、動物は自分を律する事ができない。
人は勝手に動物は倫理を持たない獣というけれど。
しかし、野生の動物を見ると人よりずっと厳格に自分の行動を律している。
そうしないと自然界で生きていく事ができないからだ。
だとしたら、動物には動物の倫理がある。
狼には狼の倫理がる。
猿には猿の掟、倫理がある。
食べ物だって動物は自分が食べる物が決められている。
雑食。悪食なのは人間の方だ。
性欲だって、年中盛りがついているのは人間だけだ。
それから考えれば、倫理は人間だけが持つなどとは言えまい。
むしろ野生の動物のほうがずっと厳しい戒律を持っている。
それに、倫理観は、絶対で普遍的ではないという事だ。
では何によって倫理の整合性を保つのか。
倫理を統御するのは自分の意志だ。
それは自己の主体性である。主体性による働きである。
生きるという事である。
肉体的にも精神的にも自分を保つ。
それが主体性である。
主体性が保てなくなれば人格が破綻し、あるいは分裂し精神に異常をきたす。
倫理の統一性を保つのは、自分。
主体という働き。
環境や他人に合わせるにしても自己が確立されていないと、自己の主体性は損なわれる。
デカルトはもう一段深いところに踏み込むべきでした。
倫理感が必要なのは自分を保つためであり。
倫理の目的は自分を肉体的にも精神的にも保つことに他ならない。
アイデンティティーをどう保つかが肝。
人としての統一性をどこで保つのか、それは自己の尊厳にあり。
事故の尊厳は、保障は自己を超越した絶対なる存在に依存する。
自己を超越し自己の尊厳を保障する存在。それを神とするのである。
戦場で兵士やサムライに殺すなとは言えないでしょう。
一方で戦争が終わったら人としてですから。
戦場では英雄。
平時なら殺人鬼。それが罪と罰の問題となる。
兵士としての倫理を優先すべきか、人としての倫理を優先すべきか。
悩ましい問題だ。
倫理など捨ててしまえという誘惑にかられる。
だから悪魔が生まれる。
だからこそ、神の救いが求められるのだ。
情報量が増加すると、情報間に矛盾や偏りが発生し、内部の葛藤が激しくなる。
整合性がはかれなくなると、全体の統一性が取れなくなる、最悪、分裂、分解を招く危険性がある。
この根本は自己の問題がる。
ベクトルとウェートの問題となる。
ベクトルの問題は、自己の中心、原点を明確に意識する事で、焦点が合わなくなる末端での相異が大きくなる。
だから、根拠に事実に置く。根拠が不明瞭だと検証が難しくなるからである。
つまり、情報の品質をいかに維持するかであり、情報は常に検証できるようにしておく必要がある。
情報源、根拠が、最終的な検証、半手のカギとなるからである。
情報の品質は、信用度に還元できる。
情報の品質を保証するためにはいくつかのフィルターにかける必要がある。
それがいわゆる倫理の問題で、倫理そのものは哲学的な裏付けがないと全体の整合性が保てなく。
何故なら倫理相対的体系であり、立ち位置や状況といった前提条件に左右されることになる。
このような倫理には、階層や優先順位がある。
一般に、倫理の優先順位は真偽、正否、是非、善悪、美醜となる。
第一に事実かどうか。
情報源は、信頼できるか。
根拠の正当性はどうか。推測、憶測がはいいていないか。
重複してないか。同じ情報源からの情報ではないか。
第二に、正誤はないか。正誤は、名前、時間、場所、現象などに対する認識、識別、分類、仕分けに問題はないか。
類似情報はないか。
頻度が多少ではないか。(正常か異常か)
第三に、論理的に整合性があるか。論理的必然性があるか。(是非)
第四に、公序良俗に反してないか。(善悪)
第五に、汚くないか(美醜)
これらの優先順位を定めて情報を最初に前処理、洗浄をかけ。
その上で、全体との均衡を保てるように、情報を位置づけし、働きの方向を調整し、情報館の関係を定める。
その為には自己の中心点、原点を不動な存在、唯一絶対な存在に置く必要がある。
それが信仰の力である。
倫理観、行動規範は、絶対的でなく相対的体系だという事ですね。つまり、倫理は論理的な体系でなく構造的体系だと。つまり、自己の内的世界と外的世界の間にあって内的世界と外的世界を仲介、調整するための機構だと私は考えます。そのためには内的認識と外的事実といかに統合するかそれが倫理の本質的な働きだと思うのですね。
内的規範が是非善悪美醜で、外的基準が真偽、正否だと考えます。そして内的規範が決断と行動を促し、外的基準が判断と分別の尺度となる。内的規範を動かすのは感情。決断は飛躍であるのに対し、外的基準を促すのが理性で、抑制的働きをする。
特定の規範、例えば、善悪とか、美醜の重きを置きすぎると全体に均衡が保てなくなり、狂う。自己の均衡を失い、極端な行動に走りがちになる。狂信とか、犯罪、テロなどの問題を引き起こす。
このような均衡を失った行動を抑止するために、自己の確立と自己を超えた存在への信仰が有効なのだけれど。自己は、間接的認識対象なので、狂信、盲信は、かえって自己を喪失させる危険性がある。まず中心を自己の位置に置く。それが自覚であり、自信です。
しっかりと自分を持ち、自分の存在の原点を外に求めない。その上で、自分の過ちを修正、正すために自己を超えた唯一の存在を想定する。神を必要としているのは私なのです。その対比のよって私の存在で際立ち。
それこそ、信じる信じないはあなた次第(笑)信じないといわれれば、はいそうですか。信じないといわれればそれまでで。
信仰があるから倫理はと持たれるのだけれど、信仰に囚われると倫理は凶器になる。