最近、決断力のない、つまり、決められない人が増えている。特に、男性に。
決められないと言っても、本当に簡単な事でも決められない。
普通に決断できる人から見ると、何故、決められないのかわからない。
始末が悪い事に、決断力がない事を、当人は、自覚していない。あるいは、認めようとしない場合がある。
決められないというのは当人だけでなく、周囲にも悪影響を及ぼす。

なぜ決められないのか、一番多い理由は、要は、決めたくないのである。
なぜ、決められないのか。
決めたら、やらなければならないというのも理由の一つ。
要するに、やる気がない。やりたくないのである。
決めたら、行動しなければならなくなる。
要は、やりたくないのである。
最初からやる気がない。
実行力、勇気がない。でも臆病とは思われたくない、思いたくない。
だから、なんだかんだ言って決断を先延ばしにする。
或いは、決められないように振舞う。
決まらないように、裏で画策する。

やる気のない者は、ポーズや振り、見せかけが多くなる。
あたかも決めようとしているふりやポーズをとるのである。
見た目でしか判断しない者は、結構、騙される。
だから、怖い。
要は、実が伴わない。決めるための条件が整わない。
見せかけなのである。不実。不誠実。

行動の伴わない、決断は、決断ではない。
決断したら速やかに行動に移す。速やかに行動に移さないと決断が鈍る。
決断は、やる前にする。
やってから決断するのは、決断にしたことにはならない。
組織の決断は、前もってする。そうしないと統制がとれない。
リーダーは、まっさきに決断する。
役割分担は、仕事を着手する前に決める。

決められない理由には、責任とりたくない、責任を負いたくないという事もある。
決めると、自分の行動に責任が生じる。だから決めたくない。
こういう人は、決めたのではなく、やらされた事なら自分には責任がないと思っている。
自分で決めないようにして、他人が決めるように仕向ける。
自分で決めなければ、責任を回避できると思っている。
要するに無責任なのである。
この様な人は、他の人に決めさせようと振舞う。
その結果、他人に対して、批判的で、攻撃的、押し付けがましくなる。
そっれって僕の仕事ですかと。

自分がなければ決められない。
自分の考え、意志がないから決められない。
要は自分がない。
自分がない者は、他人の意見を聞くと自分では決められなくなる。
だから、他人の意見を聞こうともしない。
そのために、人に仕事が任せられない。

決め方がわからない。
決めるのには順番がある。
決め時、決める場所、決める人がある。
どこから、いつ、誰が、どのように決めるか。

見てから決める。
聞いてから決める。
調べてから決める。
試算してから決める。
確認してから決める。
行って決める。
考えて決めると決め方にもいろいろあるが、自分がない者は、決められなくなる。
例えば、考えたら決められなくなる。
見たら決められなくなる。

決めた経験がない。
決断力は、経験によって育む。
自分では何も決めなくて、指図されたこと、人が決めてくれた事をやればよかった。
ある一定の年齢になるまでに、自分で、何かを決めた事のない人間は、決断力が身につかない。
甘やかされて育った子の中に多く見られる傾向である。
大人になっても何ひとつ、自分では決められない。
そして、自分に代わって決断してくれる人がいない事に癇癪を起す。

決められない理由はいろいろあるがでは、決断力がないと言って済ませられないから事態は深刻なのである。特に、責任ある立場や年齢の者が、決断力がないとなると、その影響は広範囲に及ぶことになる。

一番困る手合は、決断力がない癖に、地位や役職、それに伴う処遇を求める人間。
何も決められないくせに、やたらと威張り散らす。

一人で決める事と、組織的に決める事は、意味が違う。
この点を理解してない人が結構いる。
一人で決める場合は、外に出す必要はない。他の人に言う必要もない。黙って行動に移せばいい。
しかし、組織的に決める場合はそうはいかない。
決めた事を組織に認知させ、関係者に周知させる必要がある。
その為には、決めた事が、他の人が理解し、伝えられるようにする事が求められる。
宣言や手続きがいる。そのために、組織的な決定には時間がかかる。

組織は、指示、命令に置き換えないと、決定事項を認知できない。
そして、指示、命令は要件を満たさないと成立しない。
要件の中には、合意を必要とするものも含まれる。
決められない人の中には決めることの意味が分からず。
自分一人決めたつもりになり、なぜわかってくれないのと癇癪を起こしている人が結構いる。
組織的に決めるためにはルールが必要なのである。

組織的に決めるというのは、組織に属していなくても、社会的にも求められる。
相手がいる場合、一人で決められない事は、組織的な決定を求められる。
いい例が結婚である。
組織的な決定を理解していないと、結婚もできない。
組織的決定ができないと、社会生活が営まれない。
引きこもりの原因の一つになる。

決断力のない者は、不正とか、犯罪とか、投機、賭博といった極端な行動に走りやすい。
それがモラルハザードである。
逆説的に聞こえるかもしれないが、決断力ない者、何も決められないまま、選択肢を失い、追い詰められて、常軌を逸した結論を採用する。

ヤケッパチになって、自滅的、破滅的な最悪な決断をしてしまう。
要は、何もかも終わらせたいのである。
決めるべき時に、決めるべき事を、決めるべき人が、決めないで、先送りしてきたつけが回ったに過ぎない。

しかし、そのつけを、次の世代に払わせるわけにはいかないではないか。

決められない人の多くは、決められないというより、最初から決める気がないのである。
つまり、やる気がない。やる気がないから、決める必要がないし。
決まらないほうが、都合がいい。
だから、決めない。ポーズだけ、決めるよう見せかけていればいいのである。
そして、周囲のやる気をなくせばいい。
やる気をなくすために、批判したり、陰口を言って同調者を増やす。
その上で、自分に火の粉がかからないように、最初から言い訳を考えている。
どうでもいい、些細な事を取り上げてやる気を削ぎ、意欲を挫く。

やりたくない者は、決まらなければ、何もやる必要がないから、何も決まらないように仕組めばいい。
手っ取り早い話、決める気がないのに引き受ければいい。
結論を先送りにし、何も決めなければ始まらないし。
そうこうしている間に、時間を稼いで、うやむやにしてしまえばいい。
時機を失えば、結果が出せなくなる。やらなくても済む。狡いのである。
ただ、途中で報告を求められても、もともと手順も段取りを考えていないから、説明がつかなくなる。
そうしたら、その場つなぎに言い訳をして、いよいよとなったら、感情的になって逃げればいい。
結果を問われたら、誰も助けてくれないと投げ出せば、自分が責任をとらされる心配はない。
見通しもないのに引き受けるのは、最初からやる気はない証拠である。
やる気のある人はどこから手を着けたらいいか、真剣に聞いてくる。
結果を出せるように組み立ってくる。
やる気のない者は、適当にして、アリバイ工作をし、その後、放置しているから馬脚が出る。
最初から言い訳を用意するからすぐにバレる。
そう言う知恵は回るし、言い訳ばかり考えるようになる。

俺は、親父に、最初から言い訳じみた事を言うと、「何やってるだ、やる気がないのか。」とどやされた。

やる気がないのは、やりたくないし、やる必要がないと思っているから。
表面、上辺だけ合わせて、内心は、まったく違う。

良くはないかもしれないが、自分にとって悪くもない。
先の事はわからないし、その時になって考えればいい。
今が良ければいいじゃない。

俺の友達が、四十を過ぎた頃かな。
「サラリーマンなんてさ。ある程度、勤めているとさ、先が見えてくるんだよ。
そうしたら、なるべく無理をしないで、馘にならない程度に、手を抜いて、適当にして、余計なことして失敗をしないよう考えるようになるんだよ。
男気なんて出した損するだけ。
厄介な事、面倒な事を避けて、逃げて、逃げて。
当たらず、触らず、ほどほどにね。
なるべく仕事をしないで余暇を楽しむ。
万事、適当、適当。他人がどう思うと関係ないね。
上司の顔色窺い、ご機嫌をとって。
それこそ、適当に合わせとおけばいい。
それが賢い選択さ。
努力なんて馬鹿のする事。
だけど、自分のような社員ばかりなったら、会社は潰れてしまうから、それが心配なんだ。」と。

腐っている。

どうせなにをやったって変わらない。
変わったところで俺の得にはならない。
それより、面倒に巻き込まれるのは嫌だ。

彼らの最もコストパフォーマンスがいいのは、なるべく無理をせず、楽をして、自分たちが在籍しているうちは、潰れないようにし、退職金を満額もらうこと。
そして、自分の行動を正当化すること。
それが、個人から見れば、経済的合理性。
後は、野となれ山となれ。

難しいことではない。何も決めなければいい。
ただそれだけだ。
言われた事、決められた事だけやっていればいい。

聞いても聞いてないことにする。
見ても見ていないことにする。
周囲で困っている仲間がいても見てみないふりをする。
都合が悪くなったら、さっさと逃げだせばいい。
疲れたとか、鬱だとか。また言い訳をしてね。

逆に、自分が大学に入学した時、教授から、
「物理学者の寿命は短い。
だいたい、三十くらいでピークを迎える。
だから、死にものぐるいで勉強をしろ。
ピークを過ぎた我々は、万骨枯れる会をつくって後進のために、若者のために腐植土になる。」と。

現状に満足している者、良くする必要がないと思っている者は、決断を先送りする。
冒険をして自分を危うくする必要がないから。
冒険をして、今、自分が手に入れているものを失う方が馬鹿げている。
何もしなければ失敗もしないと思っている。

結果を出したくない。
恥をかいたり、傷つきたくない。

ただ、それは、若者たちから希望と意欲、モラルを奪い取ることに他ならない。
少子高齢化で一番の問題は、年寄のエゴだ。

歳をとると自分が汚くなる事や醜くなる事に鈍感なる。
だけど、綺麗に歳を取る事、潔く歳をとる事を学ぼうよ。

今の日本の若者たちの目は、死んだ魚の目の様に輝きを失っている。
そんな目にしてしまったのは誰だ。

自分さえ良ければ、子供達なんてどうなってもいいのである。
自分達が勤めている間は、潰れないで、最低限、自分たちの給料を確保し、退職金を満額もらえれば。
これ以上、自分の地位や所得は上げろなんて贅沢は言わない。
この会社が大きくなったり、発展する必要はない。
自分達は、何も悪い事をしているわけではない。
当然の権利を主張しているだけだ。
この会社、国の資産を食いつぶし。
会社や国が荒廃したところで自分には関係ないし、自分の責任でもない。
十年、二十年先のこの会社の事なんてどうでもいい。
十年。二十年先には、この会社に、自分達はいないのだから。

その結果、この国も、会社もこんなになった。

やらない理由、できない理由を挙げたきりがない。いくらでもある。
しかし、やる前から、言ったらそれは、いい訳である。
何ができるか、何がわかっているかから、考えるべきなのである。

俺は、高一の時、友達がシンナー遊びで死んだ。
朝礼の時、時の園長が犬死呼ばわりした。
なぜ、あいつが、在んな死に方をしたか問いもせず。
でも、その時、俺は、何もできなかった。
それから、二年後、同級生が退学問題を引き起こした。
その時俺は、一人で園長に抗議の言った。
高一の時の園長とは替わっていて、俺の話を聞いてくれた。
俺は、一人で園長室に乗り込む時、自分に言い聞かせたんだ。
「死んだ友に、言い訳ができるか」って。
それ以来、ずっと、俺は、迷った時、
「お前は、死んだ友にいい訳できるか」と自分に問うのだ。

言い訳をしようと思えばいくらでもできる。
俺は駄目な人間と言うのも、所詮、いい訳。
駄目な人間だから、挑戦できない理由にはならない。
諦める理由にはならない。
できない、やらない、理由はいくらでもある。
いい訳なんていくらでもできる。
しかし、いい訳をしたところで、聞いてくれる相手がいなければ虚しいではないか。
だから、言い訳はやめよう。

言い訳をしようとしたら、ただ、一言「未練。」と、俺は、自分に喝を入れる。

もう言い訳は止めよう。
この国をこんなふうにしてしまったのは、俺達の責任だ。

俺は、これからかの人生のすべてを、若者に捧げる覚悟をした。
それが、我々を、守るために死んでいった英霊たちへのせめてもの贖罪だ。
俺は、日本人だ。一人なってもこの国を守る。

皆、子どもたちの顔を見ろ。
この子達に恥じない生き方をしようよ。
さもなくば、俺達の未来も呪われたものになる。
子ども達こそ俺たちの希望。

自分が今、若者に何ができるか考えよう。