何が何してなんとやら。
後で打ち合わせます。
後で検討します。
後で、後で、後で、後で。
なんでも後で。
いつまで経っても後でで、結局、やらない。
後がない。
言い訳ばかり、ごまかす事ばかり覚えて、肝心の段取りや、手順と言った仕事の基本なんて教えようがない。仕事を最後までやり抜くから責任感が生まれるので。
途中で投げ出したり、やり放しにしていたら、いい加減な仕事しかできなくなる。
何が何してなんとやらでは、仕事にはならない。
後で、皆と打ち合わせて、検討しておきます。
こんな返事を何度されても、仕事にならない。
いつまでに、誰と、何を打ち合わせて、検討した結果をどうするの。
いつ報告を、どの様にするか。
一つひとつをキチンと締めて、詰めないと。
ラベルだけ、レッテルだけつけて中身、内容のない仕事はしない。
ラベルだけなら、誰でも付けられる。
問題は、内容。仕事の要件だ。
かつては、上司が、部下に、後は任せるねと任せ。
部下は、後はやっておきますから、安心して任せてくださいと受けてった。
今は、上司が、後は、俺がやておくから先に帰っていいよ。
部下は、今日、デートがあるので先に帰りますと応える。
最後までちゃんとやっていけなんて命じるとパワハラだと言われかねない。
部下を厳しく鍛えるなんて時代錯誤。
これでは、責任感など持たせようがない。
今の教育で失われたのは、師弟関係である。
師弟関係が成り立たなくなったのは、師が何を教えるべきかを見失い。
弟子が何を学ぶかがわからなくなったからである。
つまり、教育の原点が忘れ去られたのである。
何を教えて、何を学ぶのか。
第一に学ばなけれべならないのは、人としての働き。
次に学ぶべきなのは、人と人の関係。
最後に、人と人の関係の中で、どう自分を位置づけるかである。
自分がいなくてもわかるようにしておけよ。
出来るようにしておけ。
自分になにかあったら交代できる人を準備しておけ。
最初から最後までやらせろって。
中途半端に終わらせるなと。
失敗したとわかったとしてね。
それでも、途中で投げ出さないで、お終いまでやらせろ。
失敗した時はなおさらね。
最初から最後までやらせないと仕事を覚えない。
だから、一本立ちさせたくないなら、仕事を細切れにして、部分、部品だけをやらせればいい。
特に、出だしと、始末を教えなければいつまでも頼ってくるから。
詰めは厳しくてね。
アバウトに決めておいて、最後に、キュキュとネジを締めるように詰めていくんだよ。
詰めの段階には、細かいことたくさん出てくるからね。
それが今では、アバウトに決めた後、放ったらかし。
やりっぱなし。
あっちこっち食い散らかして、収拾がつかなくなる。
詰めを甘くするから始末が負えなくなるのさ。
誰かがやってくれる。助けてくれるなんて当てにしていたら、いつまで立っても一人前にはなれないよ。
最終的に、誰に先発させるか、守備をどうするか、打順をどうするかが一番神経を使う。
一つひとつを明確に決めていかなければならない。
それが詰めである。その以前に誰に決めさせるか。
誰が決めるかを、予め明確にしておく必要がある。
最終的段階では、何が何してなんとやらでは、通用しない。
まあ、着手する時から決断はつきものだけど。
兎に角、決めなければ、何も、始まらないし。
始まりがなければ、終わりもない。
決めるという事は、一つの事に選び定める事。
決めるという事は、そういう事である。
一度、決められた事、結論が出た後は、何とでも言える。
大切なのは、責任をもって決められるかである。
決められないのに、批判や、反対ばかりするのは、卑劣である。
万年野党は、気楽なもの。反対していれば、何とか様になる。
本当に政権を担う覚悟がなければ、何とでも言える。
何が何してなんとやらである。
約束できない人が、約束できない事を約束してはならない。
約束する力もない者のいう事を聞くのは、愚かなだけである。
騙されたあなたが悪いので、誰も同情はしない。
決められるのは一人。約束できるのも一人。
細かい事は、任せるなんて、かっこいいこと言うけど。
決めるという事と任せるという事とは違う。
先発を誰にするかなんて、投手の自発性に任せる事はできない。
況や、やる気で決める事もできない。決める履き人が決める。
選手交代をコールできるのも一人。
ただ、メンバーは、決定権者が、決められるように準備する。
決定権者が決められるようにするのは、メンバーの役割。
そして、決定権者は、決定を下す時、皆の前に出る。
皆の見ている前でする。
決定した事を、皆がわかるようにする。
組織では、決めた事を、全員が認識した時、決定となる。
自分一人だけ決めても組織は、決定した事を認識しない。
決められた後に、ああだこうだ言うのは卑怯である。
決められたら、従う。
従えないなら、黙って去るしかない。
悔い改める。悔い改められるものは、成長する。
懺悔して、悔い、改めろ。
懺悔、つまり、自分の過ちを認め、受け入れ告白しする。
そして、心から悔い、反省する。ただ、悔いるだけでは駄目で、改める。
悔い改めるから人は新しい境地に達する。
今の日本人は悔いる事がない。
悔いる事を知らない。
悔いるためには、改めなければならない。
悔いても改めなければ、悔いたことのはならない。
悔いるとは、改める事が出来るからである。
自分お過ちを求めても自暴自棄になったり。
不貞腐れたり、投げやりになるのでは悔いたことにならない。
悔いたならば、正し生き方に改めるのである。
悔い改めるためには、本心から、自分の過ちを認め、受け入れる必要がある。
逆に、間違ったと思っていない事でいくら謝ったところで、見せかけに過ぎない。