何が問題なのか。

何を、間違うのか。
なぜ、間違うのか。
それは、ちゃんと問題を見極めていない事に起因する場合が多い。
見極めていないという以前に、問題設定がされていない。
何が問題なのか。

今の学校では、問題は予め設定せれていて、答えが一つ決められている。
生徒は、予め設定されている問題から、予め用意されている答えを出すまでの道筋を解く事だけを、繰り返し教え続けられるのである。
しかし、現実の世の中ではこのような事例は極めて稀にしかない。
大体このような事例が成り立つための大前提は、予め、用意されている答えが絶対であることが前提でなければならい。
しかし、例えば、物理学の世界では、絶対という事を前提としたら学問そのものが成り立たなくなる。
つまり、物理では、相対が前提なのである。
それなのに、学校の教科書に書かれている事を絶対として教える。

教科書の聖書化である。
教科書は聖書ではない。
だから、わけがわからなくなるのである。

物理学の世界では、問題設定。一般社会では、問題化が一番重要とされる。
だから、問題意識をもてと指導される。
つまり、いかに問題を設定するかが肝心なのである。

大体、劣等生は、その問題そのものを確認してもいなで、答えばかり出そうとする。
例え、正解が出たとしても、偶然でしかない。つまり確率の問題なのである。
わからなくなったら、問題を読み直せ。
ところが、現実の世界では、その問題がはじめから用意されているわけではない。
問題を自分達で探し出し、設定する。
そこから始めなければならない。
ところが、肝心の問題設定の仕方を学校では教えない。
だから、狂うのである。

現実の世界で重要なのは、問題設定なのである。
問題設定を間違えたら、ただし答えは、確率的にしか求められない。
つまり、偶然と運である。

そして、悪い事に、学生生活が長いと、自分がテストされているように錯覚を知る。
正解があらかじめあって、それは絶対的なものだと思い込み、上司の顔色を窺うようになる。
残念ながら、上司も答えを知らない。それが現実なのである。

気楽に考えれば、答えが見つからなければ、問題を作り変えればいいのである。
上司は、部下をテストしているわけではない。
答えが出ないで悩んでいるのである。

そして、答えは、予め用意されているわけでもなく一つでもない。
例えば、応急的処置と、長期的処置の二つを要する必要がある場合がある。

基本的に答えは、問題と結果によって検証される。
基準も、真偽、善悪、成否、是非、勝敗、美醜等と一つではない。

経営というのは、きわめて論理的である。
土台さえしっかりしていれば、一定の答えまで導てくれる。
問題は土台である。この点が鍵。

経営は論理的であるが、重要なのは、一対一対応ではなく。
多対多が本来の在り方。
だから形でしか表せない。
言葉による論理は一対一の限界を乗り越えられない。
だから漫画なのである。

最近、AIが進化したのは一対一から、多対多、即ち、形に転化したから。
形で考える事を覚える。

言葉による哲学は衰退したが、それに代わって漫画が哲学的になっている。
しかし、学校は、未だに言葉に支配され、一対一の世界に閉じ込められ。
漫画を軽視し。
狭い世界の論理を教育している。
だから、子供たちはおかしくなる。

大切なのは、問題設定で、組織的に言えば、指示命令の問題化なのである。
だから、指示・命令された速やかに指示・命令を確認し、問題化するのです。
なぜなら、完成度の高い指示・命令は、だせない。
全ての要件を間違いなく、最初から設定せれているのでもなく、できもしない。
指示・命令は、発令者と受令者が共同して完成させるものであり、その過程で問題を共有化するのである。
それが問題化なのである。

いきなり答えをだろうとしたり、求めるのは、乱暴である。
だから、間違うのである。

もう一度確認すれば、問題は、予め、設定されているわけではない。
最初に問題化する。
しっかりとした問題設定をする。焦らない。
答えは、絶対ではなく、一つとは限らない。
経営は論理的。道筋が大切。
但、一対一ではなく、多対多。だから、形が重要。
形で考える事を覚える。
途中で迷ったら問題に立ち返る。だから、問題設定が大切。

資料は決めるためにあるので。
自分が何を決めようとしているのか、知ろうとしているのか、わからなければ。
資料と言ったて意味もなく作られているものが多い。
資料ありきだったり、唯、意味もなく分析しても。
経営分析と言っても。
何を目的としているのか。
学術会議の資料ではないのだし。
資料は、自分が判断を下す為に作ったり集めるのだから。
何が問題なのかをハッキリさせることだよ。