反権威、反権力、反体制は、無政府主義である。
今の日本は、無政府主義の侵されている。

反権威、反権力、反体制のいきつく先は、無政府主義ですよ。
そして、マルクス主義、共産主義のいきつく先は、独裁主義であり、全体主義、軍国主義。

そういうと「そうなんですか」と、びっくりする人が多いので、こっちもびっくりする。

本来、反権威、反権力、反体制、つまり、無政府主義者と、マルクス主義者は結びつくはずがない。
それが結びつくのは野合である。

困るのは、多くの日本人、マスコミ、政治家が自覚していない事である。
「あなたの言っていることは、無政府主義であって、自由主義ではありませんよ」と言っても、通用しない。
自由と反権威、反権力、反体制とは同じではない。それが理解できない。
だから、何が何でも反対するのが自由だとか。
権威を否定するのが自由。
権力に反対するのが自由とか思いこんでいる人が。

反対するのは自由だけど。
反対するのが自由という訳ではない。

自由主義者が反体制的になるのは結果であって動機ではない。
自分が正しいと思う事を行う事も、いう事も妨げられれば抵抗するだけである。

ところが、日本人は、無自覚に、反権威、反権力、反体制を自由の名のもとに標榜する。
そして、自由を掲げれば、何でも許されると思い込んでいる。

自由主義と無政府主義とは違う。

無政府主義というのはあらゆる権力機構を否定し、排除する事を目的とする。
権力は悪なのである。

自由主義は、権力を否定しているわけではない。権力を悪としていない。
自由主義者にとって個人の権利と義務を犯す権力機構に抵抗しているだけである。
基本的な権利や義務を擁護する権力を否定しているわけではない。
問題は個人の権利と義務をどう定義するかである。

注意しなければならないのは、無政府主義というのは、あらゆる権力的な規制を排除しようとする。
その様な発想は、自由主義者しない。
自由主義者の本質は、法治主義である。

無政府主義者にとっては、公的秩序もいらないのである。
極端な話、無法状態を求める。
人間の理性に対する信仰に近い信頼を前提にして無政府主義は成り立っている。
秩序は必然的に私的暴力によって維持される。

日本人は、無自覚な無政府主義である。

日本人には、清貧という思想がある。
そして、指導者や政治家に清貧である事を求める。
確かに、清くは、いいかもしれない。しかし、貧しくはいただけない。
何故貧しいことがいいのか私にはわからない。
そんなこと言っていたら、政治家や指導者のなり手がいなくなる。
貧しかったら、国事に奔走するなんて、最初から不可能、できやしない。
政治家に、最初からできもしないことを求めて、その上、過大な見返りを求めたら、悪くならざるを得ない。
過大な報酬で釣るのもいただけないが、貧しさを求めていたら、最初から成り立たなくなる。
収支が合わなければ、不正をしてでも金を得ようとするのが人の常である。
だから、金にまつわる不正が後を絶たなくなる。

清貧という思想は、自由主義にも、民主主義にもない。
仮にあるとすれば、全体主義である。

清貧という思想は、平等という意味とも違う。
清貧というのは、貧富の差を前提としているからで。

アメリカで資産を開示させるの、金の出どころを知りたいからで、貧しくなければならないなんて一言もいつていない。

むしろ、昔は、井戸塀とか、政治道楽などと言われ、政治に現を抜かすとみぐるみ剥がれるとまで言われた。
清貧なのではなく。政治的野心を持つと政治家は貧乏になるとまで言われ。

これも、無政府主義的な思想である。

政治的指導者は、貧しくあるべきだという思想、思想というより規範に近いけれど、これは日本人特有と言っていいかもしれない。

確かに清貧という思想は、他国にもあるが、それは、聖者とか、賢者に対してであって。
聖賢の対極ある政治家や権力者に求めるのは野暮である。
つまり、政治というのは、俗の権化みたいなものだから。政治は現実なのである。

聖賢に求められるのは、魂の救済や真理の探究、道徳であり。
政治家や権力者に求められるのは、結果である。

つまり、政治の求められるのは、国民の欲望を満たす事。
国民に現実の利益を与える以上、対価を求めるのは当然と、他国の国民は、認識しているから、貧しくていいなんて思わない。

政治屋というには困るが、政治家が、それなりの対価を求めるのは悪い事ではない。
無論、合法的にではあるが。

他国と対等に渡り合う為には、それなり体裁も必要で。
他国の政治家に比べてみすぼらしい格好をしていたら、見下されてしまう。
国民だって惨めになる。
無論、国民とかけ離れた生活せよというのではなく。
それなりの生活が保障されるから政治ができるので。
これも反権威、反権力の延長線上にある。

大体、政治家が金に困る事の方が弊害が大きい。
だから、貧しくていいとは言わないが、金の流れは明らかにしろと。

派閥が悪いというのは、典型的な、無政府主義。
派閥というのは、組織の一種であり。
言い換えるよ、チームである。
つまり、チーム、組織の否定である。

本来、派閥が悪いというのではなく、派閥の機構、構造、仕組の問題で。
派閥が民主的に運用されているか、民主的な機構を持っているかは問題になるが。
派閥そのものを悪とするのは、無政府主義的である。

それは権力そのものを否定する思想につながるからである。

結局、政党は、単なる集団になりはて、組織、チームとして活動できなくなる。
政党は、グループでなく、チームであるべきなのだが。

今はなにが、なんでも派閥は悪だと。
派閥は悪だと決めつけている。

頭のどこかに、組織は、権力機構だから悪だという意識が働いている。
それが、無自覚な無政府主義なので。
原始共産主義でなく、原始無政府主義みたいな様相を呈してきた。

こうなると、共産党とか公明党のような組織を肯定する政党のほうが秩序を維持できるようになる。

自由民主党が無政府主義政党になるなら、最初から無政府主義を標榜すべきで。
最初から、自由主義と無政府主義との違いを、明確にすべきなのである。

確かに、派閥で改めるところがあれば、改めるべきだけれど、政策集団まで否定したら、自由民主は実現できなくなる。