自分も、もう七十なんですね。
そうするといろいろな事を考えるのですね。
後何年生きられるかとかね。
自分にこれからできる事は何があるのかとかね。
今更とか、とか。
いろいろね考えるのですよ。
それにいろんなことも見えてきてしまう。

人類滅亡なんていてもね。
だから、どうなんだって。
死んだらどうなるのかって。
死後の世界を信じられるか。

悪逆非道で栄華を極める者もいるのに。
真面目であるから損をしている者もいる。
ああ神様、不公平だと問いたくもなる。
死んでしまえばお終いよ。それもすべて。

なんだ、同じじゃないかって。
大統領だって、皇帝だって。俺だって。
同じじゃないかて。死んでしまえばお終いよ。

年衰えるって残酷ですね。
それこそいろいろね。
認知症になったらどうしようとか。
歩くのも億劫になって。
もうどうでもいいや。
すべてを終わらせてもいいなんてね。
時には、思ってもみるのですよ。
先がないんですね。
朽ち果てっていくだけなんです。

同世代の仲間を見ていても、定年退職になったり。
何も、仕事もなくて、ぼんやりと。
やる気も、何かに挑む気もなく。

今更、天下国家を語ったところで虚しく。
何かを学んだところで、先がないですから。
結果を出したところで虚しい。

そうすると、何故、何を学ぶのかって。
そこまでいって、やっと見えてくるものがある事に気が付いたんです。
生きるってもっと単純なんだなと。

一人になる事を思うとね。
いいじゃないいって。
今の事だって、過去の事だって、先の事だって。
いいじゃないって。
結局失うものなんて何もない。
それでいいじゃないって。

何を怖れているのかって。
遅いか、早いかの違いで。
何もないんですね。

死を恐れることも、生きることにどん欲になる事も。
恥ずかしいとか、悔しいとか。
有名になりたいとか、金持ちになりたいとか。
執着心もですね。

例えば、ウクライナでも、戦場の街に取り残されているのは、年寄りばかり。
どこにも、行く場所がないのですよね。
だったら、今いるところで生きていくしかないじゃないですか。
何ものに囚われずに。飾らずに。
いいじゃないですか、自分は自分で。

例え、ウクライナ問題が片付いたとしても、核は残る。
生物化学兵器も。
人間は、遠くへ来すぎてしまったのかもしれない。
神が見えないほど。
第一次世界大戦の時、第二次世界大戦の時とは、まるで次元が変わってしまった気がするんですね。
ベトナム戦争とも。
あの頃はまだ、もっと、なんと言うか、単純に、簡単に、未来を信じられたんですね。
だから、自分の人生と人類の歴史とが、同じ次元で語る様な事って。
自分の人生の終末と人類の終末が重なって見えるなんて。
馬鹿げている。
自分の歴史と人類の歴史が…。

非人道的な兵器と言うけど、じゃあ非人道的でない兵器なんてあるんですかね。
兵器なんて人殺しと破壊の道具でしかない。
その境目も無くなって。
何が、人道で、何が、非人道なのか。
あほくさ。

最初は、広島に落とされた、たった一発の爆弾が始まりだったのかもしれない。
今や、人類を何度絶滅しても余りあるほど。
それまでの人間の文明を、ことごとく、帳消しにしてしまうことだってできる。
第二次世界大戦直後は、これほど、コンピューターや情報通信技術が、発達するとは、思っていなかっただろうし。インターネトも携帯もなかった。
何もかもが、変わってしまった。
人類滅亡、終末なんて、神話か、都市伝説の類に過ぎなかった。
笑って、単純に、楽天的に未来が信じられた。

神を信じられるかって言われても。
信じる以外、救いようがないではないですか。
我々は、自分が死んだ後でも人類の歴史は、ずっと続くと信じてきた。
でも、その確信が根底から崩れてしまった。
だから、人って何なのか。
自分とは何なのかって。
人や自分と言う存在と、直接、対峙しなければならなくなってしまった。
そうなると、隣近所のつまらない出来事と、ウクライナの問題の様な事が、ゴチャゴチャになり。
親しい友人の死の原因が、交通事故なのか、戦争で戦死したのか。
そんな事、どっちでもよく。
死は死だ。死んだ事には、変わりがないなんてね。

残るか、残るかが、問題なのではない。
確かに、なにも、残らないかもしれない。
ただ、確かなのは、何もしなければ、何も残らないという事だ。