人を殺してはならない。
生き物を慈しみなさいと父母に教えられ。
命を大切にしなさいと、生まれた時から躾けられ。
戦争だからと言って親の教えに背いて、目の前の人(敵)を殺せと命じられても。

なんの迷いも躊躇もなく、命令に従えるだろうか。
目の前にいる敵(人)は、何の恨みもない、面識もない相手である。
犯罪者でも何でもない人である。

普段なら、言葉で人を傷つける事さえ。
虫一匹殺すのさえできないのに。
よほどの事がなければ暴力を振るう事さえできないというのに。
戦場では、殺せと。撃てと命令される。
逆らう事は許されない。

狂わなければ、人なんか殺せはしない。
戦争は狂気なのだ。
戦場は、恐怖に支配されている。
兵士は、平時と戦時では、人が変わる。

人の心を蝕むのは、己が犯した罪である。
過失であろうと、事故であろうと、たとえ、見て見ぬ振りした事でも、黙って見過ごしたことでも、罪は、罪として記憶の奥底に刻まれて、歳と供に鮮やかによみがえる。
そして、人は、裁き、報い、つまりは、罰に恐れ戦く。
人は、自分が直接原因でなくとも、関りを持っただけで罪を感じる。

兵士と言っても、戦時でなければ、どこにでもいる、普通の人なのだ。
人殺しでも、犯罪者でもない。

レストランのウエートレスだったり。
コックだったり。
学校の先生や、バスの運転手や。
魚屋のお兄ちゃんだったり。
いきなり、戦場に駆り出され、目の前の人を殺せと命じられても。

神に繋がるのは、殺せという叫びなのか、殺すなという声なのか。

第二次世界大戦で米陸軍准将S・L・A・マーシャルは、第二次世界大戦中の戦闘で、アメリカのライフル銃兵は、わずか15%から20%しか敵に銃口を向け、発砲しなかったという。
発砲しないというよりできなかったといった方が正しかもしれない。
だからと言って発砲しなかった兵は、戦場を離脱したり、隠れたりしたわけではない。
ただ、敵(人)に向かって銃を撃てなっかっただけ。
たとえ、自分の身が危うい時でも敵に銃口を向け引き金を引く事できなかったというのだ。
デーブ・グロスマンに言わせれば、何も特殊な事でなく。
あらゆる戦場で、人種や体制、信条に関わらず、いつの時代でも起こってると。(「戦争における「人殺し」の心理学」デーブ・グロスマン著 ちくま学芸文庫)
この事は、ウクライナ侵攻時の、ロシア兵の話にも出てくる。
最初に侵攻してきた若いロシア兵が、市民にたいする上官の攻撃命令に反抗したとか。
抗議する市民にたじろぐ兵隊の姿など。
また、残虐行動のあったブチャでは、はじめに来た若い兵隊ではなく、後から来た古参兵が残虐な事をした。若い兵隊はどちらかと言うと戸惑っていたと。

天安門事件の際、戦車の前に立ちはだかって戦車の進軍を阻止しようとした男がいた。似たような男がウクライナにも出没した。
人は、彼等をタンクマンと称賛するが、彼らを戦車の操縦者はひき殺せなかったのだ。

平然と残虐行為ができる者は、戦争以前に狂っている。
正常な人間にできる事ではない。

グロスマンは言う。
戦闘状態に、一定期間、置かれると、98%の人間は、精神に変調をきたすと。
狂わずにいられるのは、後の、2%に過ぎない。
狂わないでいられる2%の人間は、戦場に来る前から狂ってると。

子供は武器が好きだ。
おもちゃの刀を振り回し。
モデルガンや水鉄砲を使って遊びまわる。
子供の頃、我々なチャンバラ、戦闘ごっこ、今の子なら、戦隊か。
映画も。アクションや、戦争映画が流行る。
ゲームも戦闘物が多い。
しかし、現実の戦争は、人としての尊厳が問われる。
英雄も、勇者もいない。
単なる殺し合いである。
多くの兵士は、その瞬間、良心的兵役拒否者になるとグロスマンは言う。
それが神の意志であり、救いのはずだ。

罪の意識を弱めるのは、距離と道具である。

コンラート・ローレンツは、人間に限らず、動物の多くは、同種殺しには抑制がかかると言う。
動物に働く、抑制心にこそ、摂理が隠されている。

生き物は、いろいろな制約、(例えば、食べる物や生きる範囲、能力等)がかされてきた。
肉食動物は、肉しか、草食動物は決められた植物しか食べられない。
人間は、その制約を一つひとつ外してきた。
その果てに行きついたのが今の人間の世界だ。
だとした、その先に責任を持つのは、人であって神ではない。

人の抑制心を弱める働きがあるのは、距離と道具である。

目の前の敵は殺せない。だから、直接、目にする事のない遠い敵なら。
近代戦を無惨にするのは、人(敵)が見えないところから殺戮することで罪の意識が弱められた。

道具は自制心を弱くする。

科学技術の発達は、人々を豊かにもするが、戦争を無惨にもする。
科学技術を何に使うのかが問題なのだ。

グロスマンは、人間のタブーとして性と戦争を上げる。
性もおおっぴらにできない。
性を過剰に意識するのも、無視するのも、正しい認識を持つことの妨げになるだけだ。
あからさまに性について語る事ができないのと同じように、戦場で敵を殺せない事もあからさまにはできない。

だからこそ、人間の本性について真面目に探究できない。
糺すべきなのは、人の犯す罪である。
肉体的傷は癒せても、心の負う罪の意識は癒せない。
自分の犯した罪は、時間の経過に従って心の奥底に広がり、蝕んでいく。

人は、純なる魂を十字架に架けた事に対する罪を二千年以上も悔いているのである。

戦争の奥底に隠されているのは、性と暴力、欲望、そして、恐怖。
それを押し隠すために、正義、栄誉、大義が持ち出される。

善悪の問題として片付けられるほど単純な事なのだろうか。

人を殺せと命ずるなら納得のいく理由を聞かせてくれ。
だから、現代の戦争は、やたらと理屈っぽくなる。
結局、自由をとるか、隷属をとるかの違いだ。

人は、人を殺すのになぜ躊躇う。
平和や独立のために戦うのも、侵略、征服、支配、野心のために戦うのも、戦いであることには変わりない。
兵士が怖れるのは、自分の死や自分が傷つく事より殺人の罪を犯すことだ。
神を恐れるのだ。

人の意志、神の意志に背いてまで、何故、戦わなければならないのか。

人は、存在意義を問われているのかもしれない。

ロシアで政権に対する支持率が高いって。
反対することもできず。
信じることしかできなければ、支持するしかないではないか。
悪事とわかっていて見逃すことは罪。
悪事とわかったところで抵抗しようがないなら。
消極的にしても自分たちが正しいと言い聞かせるしかないさ。
プロパガンダは、信じる方も信じたいから信じるのだ。

善は、自己善。
人は、自分が善とすることでさばかれる。
憎しみを善とする者は、憎しみによって。
愛を善とする者は、愛によって。
欲を善とする者は、欲によって。
地位を善とする者は、地位によって。
嘘、欺瞞を善とする者は、嘘、欺瞞によって、
金を善とする者は、金によって測られ、裁かれる。

戦場では、被害者、加害者の別はない。
全員が加害者であり、被害者である。
殺せば、人としての罪に一生苦しめられ。
殺さなければ、戦友や国家への忠義が問われる。

自分の事として、考えなければ、自分の問題は克服できない。
神の性にも、他人の性のもできない。
自分と関わりのない世界は見えやしない。

こいつを忘れてはならない。
忘れたら人の世界は、護れはしない。
仮に、戦争でこの世が荒廃しても自業自得としか言えない。

神の名の下に自分の行いを正当化するのは愚かである。
なぜなら、神は善悪を超越した存在。
人は、自らの行いによって裁かれる。
自らの行いに責任を負うのは、自分である。
自分の行いを、他人のせいにするから、抑制が効かなくなるのである。

仮に、滅亡する事があったとしても、それは、人の意志の依るのであって、神の意志ではない。
残虐な行為に対する報いは、人の罪であり、神の罪ではない。
人が破滅するのは、人の意志による。神の意志ではない。

人は、自分のことしかわからない。
認識とは、比較である。
劣等感は、自分の事しかわからないから、持つのだ。
表に出せないのに、性力を誇示したり、劣等感に悩まされたり。或いは恥じたり。

人は、自分の世界で生きている。
自分の世界でしか生きられない。
プーチン大統領は、自分の世界の中で生きている。
自分の世界の中でしか生きられない。
ゼレンスキー大統領は、自分の世界で生きている。
自分の世界の中でしか生きられない。
バイデン大統領は、自分の世界で生きている。
自分の世界の中でしか生きられない。
一兵卒は、一兵卒の世界があり。
科学者には、科学者の世界が。
王侯貴族の家に生まれた者の世界と、労働者の家に生まれた者の世界は違う。
江戸時代には、ヨーロッパに人間と日本人の多くは、まったく関わり合いのない世界に住んでいた。
仮に、宇宙の果てに、人間の知りえない世界があったとしても、それは、人間とは関わりのない世界なので。
しかし、現実の世界は、一つの世界なのであり、相互に深く関わっている。

神を否定する者は、自らを神とする。
自らを神にした時、全ての前提は失われ、この世は光を失う。
人が知りうるには、どこまだいっても部分に過ぎない。
一度に、全体を、総てを見ることはできないし。
自分の外にある世界は、知りえない。
滅びるのなら、滅びればいいさ。
神は、不滅なのだから。

わかろうと、わかるまいと。
肯定しようが、しまいが。
否定したところで。
存在するものは存在する。

人は、自分の世界に生きている。
人は、自分の世界の中でしか生きられのないのなら。
自分の世界を超越した、自分の世界にの外にある全世界を統一する存在を、只々、信じ受け入れる以外、自分の存在を保障できないではないか。
自分と存在と一体性を保てなくなるではないか。
自分を存在させ、この宇宙の一体性を成り立たせている、全体、世界を、無条件に、受け入れそれを、前提としない限り、自分の意識の統一性は保てなくなる。
全ての前提となる存在。
存在を存在たらしめる存在。
それが、神である。
故に、神は、無分別である。
善悪を超越した存在である。
真偽、善悪、美醜の分別は人の側にある。
故に、善は、自己善である。

私も、自分の世界に住んでいる。
だから、人と比較しても意味がない。
富も、名誉も、地位も、絶対的の事ではない。
相対的な事。
劣等感も自分で自分を卑しめてるだけ。
何が望みかと言われたら、神の意志に寄り添う事。
それは、真理に近づく事なのだろうけど。
真理と言うのは、物理学的真理を言うのではなくて、神の慈しみを知る事。
純なる魂。

ウクライナのように自分の国が侵略されたら迷わず武器をとる。
ただ、自分の罪から逃れようとは思わない。
愛する者、独立の為、自由の為なら怯みはしない。
でも、自分の罪を忘れたら、救いようがなくなる。

戦争は、理不尽に自分の世界に割り込み、侵略し、支配する。

権力者は、自分の手を汚したりはしない。
権力者は、遠くから命じるだけで、自分が手を下すわけではない。

神は、その事をご存じなんだ。

ほとんどの人間が、人を殺すことを、ためらい、躊躇するとしたら。
それこそが神の意志でであり、救いである。

我々が目指す社会は、平然と人殺しができる人間を育てる社会なのか。

何が、最後に人間を自制させるのか。
人の心の奥底から湧き出て自滅的の行いを抑制させる力は罪の意識。罪悪感である。

そう考えたら、超越的絶対者、神を信じるしかないではないか。
勘違いするなよ。
人間よ、思いあがるな。
神が、人を必要としているのではなく。
人が、神を必要としているのだ。

神が私を必要としてるのではなく。
私が、神を必要としているのだ。
神が、あなたを必要としているのではなく。
あなたが、神を必要としているのである。

神を否定する者は。みずからを神とする。
その時、全ての前提は失われ。
自分の存在は、無となり、虚しくなる。

疫病、天災、戦争、経済破綻に人類は破滅へと誘われている。
その根源は、人間の行いであって、神のなせる業ではない。
人間が自らを悔い改めない限り、何も変わらない。
同じ過ちを繰り返すだけである。

何に怯える。
自分の影にか。

救いは、神の意志であり。
救いは、人、自分の意志にある。