人は、皆、神の祝福によってこの世に生を得る。
死を恐れる必要はありません。
真っ直ぐ、神に向かって歩んでいけばいいのです。
神との間に小難しい理屈などいらないのです。
神は、感じるのです。
夜、暗闇に、誰かの息遣いを感じた時、
物陰に、何かの気配を感じた時、夜空を見上げた時、暖かな眼差しを感じた時、
神は、そこにおられるのです。
神は、生々しい存在なのです。
神は、あれをしてはならないとも、それをしなければならないとも言われない。ただ、お示しになる。
神は、愛せとも、愛するなとも言いません。
人を愛しても、愛さなかったとしても、報いを受けなければなりません。
神は、信じろとも、信じるなとも言いません。
戦いに行く者も、戦いから逃げるものも報いを受けます。
神を信じても信じなくても報いはあります。
人を殺せば、報いがあります。
人を欺けば、報いがあります。
嘘をつけば、報いがあります。
人を愛しても報いを受けます。
義を貫いても報いはあります。
悪い報いもあれば、心地よい報いもあります。

真の聖人は、唯の人です。

愛を善しとする者は愛によって裁かれ。
殺戮を善しとする者は、殺戮によって裁かれ。
愛欲を善しとする者は愛欲で裁かれます。
人は自らが善しとしたものによって裁かれるのです。

人はそれぞれ自分が信じる道を辿って神へと近づいていくのです。
信仰によって迫害を受けるかもしれません。
貧しくなるかもしれません。
しかし、信仰故の迫害や貧しさは、その人にとっては神へ近づく事なのです。
全ては、あなたが何を善しとしたかによって定まるのです。
それが信仰による報いです。

信じようと信じまいと、愛そうと愛すまいと、死は平等に訪れる。
何が違うのか、それは、自分の魂の問題。
甲冑に身を固めてなければ神の前に立てないのか。
原爆を担いで神の前に立つのか。黄金で飾って。
かつて裸で十字架を背負って神の前に立った男がいた。
彼は信仰を成就したのです。

ああ、自分は生きているんだという実感ですね。
そして、それに感謝する心です。
飢えも知らず、乾きも知らない、戦争もなく、平穏な日々を暮らしているのに、神に感謝しようともしない。
なぜ、人は不幸なのか。
それは幸せだと感じる心を失ったからです。

今の日本人は餓鬼です。

テレビを見るとグルメ番組ばかり、今の日本人は、何を食べても満ち足りる事はありません。
その一方で、良心の呵責もなく大量の食べ物を捨てている。
神に感謝する事もなく。
その報いは遠からず受けます。

空腹な時は、何を食べてもおいしいものです。
足らざるは貧です。

どんなに美味しいものを食べて満ち足りる事はありません。
貪欲に食べつくしてしまう。

現代、日本人の心は貧しい。
食べるものがなくなった時、人は、食べ物が神の恵みだった事に気が付くのです。
でも、もうその時は遅い。
そういう時が近づいています。
人は信仰に飢えているのです。
人々の心は乾いている。

コロナ騒ぎの中でも、満開の桜には、変わりありません。
東日本大震災の後も、戦争の後も生き延びた桜は、また、花を咲かせます。
それを美しいと感じる心にも変わりはありません。
理屈で、花を美しいと感じるわけではありません。
花を美しいと感じ、生きる喜びを感じた時、自分が、何者かに生かされている事を、実感できるのです。
その何者かが神です。
だから、その時、そっと手を合わせれば、きっと神は微笑んでくれます。
神とはそういう存在です。
神を必要だと思う嘘偽りのない心こそ、信仰の原点なのです。
それは感じる事であって、頭で理解する事ではありません。
神は感じるのです。理解できる存在ではありません。
あなたは神に選ばれたのです。

朝、雲間からもれる光芒を美しいと感じた時、その心の彼方に神はおられるのです。
神を否定する事はいくらでもできます。
でも、信仰なくして生きていけないと、感じさせる魂こそが真実なのです。
そして、その神に向かおうとする心が、あなたを導いてくれます。
素直に、純なる魂に立ち帰ればいいのです。
あなたは神に選ばれたのです。

神を否定する要素はいくらでもある。
しかし、神を信じなければいられない。
それこそが、真の信仰心なのです。
神は感じる存在なのです。

今の世で真の信仰に目覚めた人は、神に選ばれたのです。