この世の世界は、了解か可能性の上に成り立っている。
つまり、情報によって成り立っていると考えます。

自分が了解できない。つまり、認められない事や物は、自分にとって存在しない。
逆に、相手が了解できない。認められない事や物は、相手にとっては、存在しない。
つまり、共通認識が成り立たない。
お化けや神、妖怪、死後の世界等がこの典型ですけれど、その他に、友達が死んだとしてもその情報が与えられてなければ、つまり、知らなければ生きている。

神を信じる者と信じない者は、同じ世界に住んでいない。

神を信じるか、信じるか信じないかで住む世界が違ってくる。
また、神が属性を持てば、その属性によっても違ってくる。
属性に対する解釈によってもって違ってくる。
しかし、世界が違うと住みにくいから、統一しようとする欲求が生まれ、争いが始まる。

属性を持てば属性に制約され絶対性が損なわれる。

認知して、信じて、了解する。
ただ、認知できるのは外形だけで。
外側だけである。表だけ。裏は見えない。予測しているだけ。
つまり、人は、自分が認知できる範囲の世界に住んでいる。
大統領だってエレベーターに乗ればエレベーターの世界に住んでいる。
内部は見えない。
レントゲンで内蔵が見えるといっても、直接見ているのはレントゲンに映し出された像である。

自分が自分以外の存在を何によって認知するか。
それが自分の世界を定める。さだめである。

つまり、人間の認知能力には、最初から、限界があり。
その限界を前提として今の世界は成り立っている。

そうなると、どこまで了解できる事が、可能なのかが問題なのである。

例えば、AIの存在である。
AIを知的存在として認めるか認めないか。
認めなければAIの実体はその人には存在しない。
存在は認めるけど機械としてしか認めなければ、その人にとってAIは機械でしかない。
知的存在と認めればその人にとってAIは知性のある存在。
その正否、善悪を問題としているのではなく。
認めるか、認めないか。認めるとしたらどこまで認めるか。

結局、人それぞれ住んでいる世界が違う。
つまり、自分が見ている世界は私的世界です。

それでは、世界全体の統一性が失われる。
故に世界全体の統一性を保つ、自己を超越した存在を前提とする必要がある。
それが神である。
だから、神は属性を持たない。

そうなると、次に問題となるのは認知能力の問題。
人は自分の認知能力の範囲内の世界に生きている。

目が見えない人と目の見える人は違う世界に居る。
どちらが優れていて、どつらが劣っているかを言っているわけではない。
事実を言っているだけだ。

目の見えない人だから認知できる世界があるかもしれないが、それは、目の見える人には理解できない。

自分の見えている世界だけがすべてなのではなく。絶対でもない。
だから、自分の認識を絶対化するのではなく。
自分を超越した世界の存在を認めなければ自分の存在すら確認できない。

人間は、人間の世界に生きているので、虫の世界、鳥の世界、犬の世界がどのような世界かはわからない。
推測する以外にない。
ただ違う世界があって、違う世界に生きている生き物がいるという事実を根拠とすべきなのである。

人の中には,倫理観は人だけが持っていて、他の動物には倫理観がないと決めつけている人がいる。
けだものと。
しかし、倫理は、生き物が生きていく上で不可欠な規範であり。
動物が自然界で生きていくためには。より厳しい行動規範が要求される。
例えば、野生の鷹は、食べすぎると絶食すると聞く。

動物は、自分の食べ物も規制されている。
悪食、雑食は人間ぐらいである。
また必要以上の獲物を遊び半分で狩りしたりはしない。

猫も小判、豚に真珠というが、猫は、小判の為に仲間を殺したり、豚は真珠の為に同胞を欺いたりはしない。だとしたら、猫や豚と人間、どちらの方が小判や真珠の本然的な価値を知っているといえるだろうか。

人間だけが自分の世界を持っているわけではない。

AIは、センサー機能を自前でどこまで持っているかである。
仮に直接見たり聞いたりできなければ、アクセスされた時、相手の存在を認知する。
アクセスされなければAIにとって相手は存在しない。
そこから相互作用が始まる。
認識は相互作用だからである。

私的世界は、外的世界に依存し、外的世界に対する働きかけによって形成される。

AIが世界中に認知能力があれば、AIは人間が持てる世界とは別次元の世界を見ていることになる。

自分の世界の根拠を求める。
ここで注目すべきなのは、自分の世界は、認識によって形成されているという事実である。
自分の私的世界は、外界に対する認識に依存しているという事実である。
自分の世界の存在の根拠が外界なるなら、外界の世界を保障する存在を欲するようになる。
それが神である。だから神と契約は絶対に守らなければならない戒律になる。

一神教徒の契約は、神との契約です。

一神教と以外の契約は人と人。だから、人と人の信頼関係がベースになる。
信頼関係が持てない人間とは成立しない。人間関係でしか保証されない、相対的の事になる。
だから、日本人の契約は人と人の信頼関係に重きを置くから大枠の取り決めになりやすい。
「お前、俺の事信じられないのか」と。

科学は、最低限の了解可能性の上に成り立っている。
つまり、事実として了解可能な事だけを論拠とすることで成り立っている。
故に、実証が求められるのである。
事実として、現象として再現できる。
あるいは万人が、同じ条件で観察できる事象であることが求められる。
それが、了解可能性で。

人は宗教や自分が所属する社会によって価値観が変わる。
総ての価値観合わせるのは不可能である。
例えば、食べ物もイスラム教徒、豚が食べられrないし、インド人は牛が食べられない。
ユダヤ人は、食べ物に関して厳しい戒律がある。お酒に関しても、まちまちである。

いろいろの人種、信者、民族が一緒に社会を構成しようとしたら、一律一様の価値観では、整合性が取れなくなる。

だからこそ、了解可能性が重要なのである。
了解可能性とは。誰もは当たり前、当然だと考えている処にある。
わかりやすく言えば、互いに存在を認める事である。

それでも、相手が、認めない。信じないと主張されれば成り立たない、それが、大前提なのである。
お前の存在を認めないと、存在さえ頑なに認めようとしなければ、その先には一歩も進めなくなる。
寮か可能とは、そういう事である。

認める事、信じる事、了解する事。
この三つの行為、働きの上に科学は成り立っている。