今の若者は、大切なものを自分たちの手で護ろうという意識が欠落している。
そう言うと、また、国防のことかと。確かに、国も大切さ。
でも、大切な物事は、国だけではない。
愛する人、家族、故郷や同胞、兄弟、大地や自然。平和。
それに約束だって大切。信義、仁義、友情、法や秩序、規律、道徳、思想信条だって、大切に守らなければ、歴史や伝統、文化も大切に護らないと。
そして、何よりも命。自分だって。
大切に護る物事があるから、生きがいがある。
護らなければならない物や事があるから、使命感も生じる。
その大切なものを守ろうという意志が、若者たちから消え失せてしまった。
そうしたのは、誰か、そう問うと愕然とする。
その問い掛けは、両刃の剣。
こんな国にしたのは、我々なのだ。
今のこの国に、若者たちの責任はない。
この国をこのような状態にしたのは我々なのだ。
その事実を率直に認めよう。
そうでなければ何も改めることはできない。
だから、この問いは自分達にも向けられる。両刃の剣なのだ。
今、世界は、混迷の時代へと向かっている。
この国を除けば、文武両道が、常道なのに、我が国には、文のみ重んじ、武を切り捨てた。
刀は、武士の魂と言いながら、武士がいなければ、刀は、魂を失い、ただの武器、凶器となる。
三鈷剣が何故欲しいのかと問われて、憂国の志、祈りというとたじろがれる。
サムライは、防人。
主を守る者。
国民国家においては、国の主は国民だから、国民を護る者。
ウクライナだって、パレスチナだって、多くの若者たちが、命がけで自分にとって大切な物事や人を守るために戦っている。
そして、彼らは、問い続けている。
自分たちにとって命を懸けてまで守らなければならないのは何かと。
守ることを忘れた若者にそんな話をしても、なぜそこまでして守る必要があるのですかと。
その答えを聞いた時、この国を守るために死んでいった若者や兵卒は、驚愕するだろう。
何故と言われても。
護るものがあるからこそ、人として生きられる。
護るものを失ったら人でなしになる。
だから、命かけても護るものやことを探し求める。
それが人だ。
実際のこの国を守るために戦って死んでいたのは、名もなき一兵卒である。
若者たちである。
彼らは、純粋に自分たちが、守らなければならないもの、事、人のために死んでいったのである。
彼らの犠牲の上に生きている我々に、彼らの死を犬死と嘲る資格はない。
我々に、後事を託して、彼らは逝った。
今更、あなた方に守ってもらう必要はなかったと言えるはずがない。
今の若者は守られることばかり求めて、守ることを忘れた。
我々は、親になると、これからは守る側に回るのよと。それが大人になること。
護ることを知らなければ、半人前なのだと。
護ることを覚えなければ、自分を守ることもできない。
今老人の孤独死が増えている。その多くは、引きこもりで、助けを求めることすらできなかった人たち。
自分は何をしてきたのだろうと、本を読めない分、考える時間はたくさんあったから。
何かこの流れを断ち切りたいと。
父は、人を殺すには嫌だと、工兵になり、工兵として、満州に行き。
それから、釜山港を経て宮古島で終戦を迎えた。
宮古島では、火葬にするとその煙、めがけて、敵の飛行機が攻撃をしてくるから、手を切って、七輪で焼き、急いで骨にして、骨壺に収めたが、しまいにはそれもできずに、石を骨壺に入れたと。
飢えがどれほど恐ろしいかも教えてくれた。
食べたら死ぬよと言われた蟹を、食べて、死んでいた連中をたくさんしていると話してくれた。
情けないもので、夢に見るのは、食べ物ばかりとも。
父たちは本当の飢餓を知っていた。
戦場を生きぬことの難しさを。
悲惨な話を淡々と話すから逆に妙な凄味がある。
どこかで断ち切らなければという思いが日に日に高じてくる。
底なしの泥沼に落ち込むこの状況を、どこかで断ち切らねばと。
たとえどん底に落ちても、日本人としての魂を捨てなければ。
志を継ぐ者が絶えなければ、必ず、這い上がっていくことができる。
志を継ぐ者がいなくなるのが怖い。
今こそ、サムライが。
その時なぜか、思い浮かんだのが、不動明王が持つ剣で。
不動明王の持つ剣はなんというのだろうという疑問である。
調べてわかったのが、三鈷剣。
宝剣とか、倶利伽羅剣ともいう。
「貪」「瞋」「痴 」の三毒を破る知恵の利剣であると。
それで、三鈷剣は手に入らないかと、インターネットで検索すると色々出てくる。
その中から、置物の三鈷剣を手に入れた。
しかし、置物は、置物なので、さらに調べると、今度は、模造刀の三鈷剣が見つかった。
佐久島製作所で、素晴らしい模造刀を制作している事がわかった。
それでもいいかと思ったのだが、どうせならば、真刀はないかと、さらに検索すると。
田中國次刀匠の剣が銀座誠友堂に載っていたが売約済みある。
さらに調べると、辻和吉刀匠の剣にたどり着いた。
田中国次刀匠の事は、そこから先、調べが付かなかったが、辻和吉刀匠のホームページにたどりついた。以前から、守り刀を一振りほしいと思っていたが、普通の刀では気が引ける。
その点、宝剣、三鈷剣なら、祈りの対象として、また、守り刀として。
今年(2023年)は卯年、東日本大震災も卯年。
そして、息子も卯年生まれ、そこになにがしかの因縁を覚えた。
だから、卯年に守り刀が欲しいと。
年を越えたけれど発願が卯年なのだから。
そこで、七月に辻刀匠に作刀の依頼の手紙を書いた。
作刀依頼の動機として、憂国、東日本大震災・英霊の慰霊、そして、次の時代を担う若者たちへの祈りの三点を挙げたが、直接作刀の依頼は受けていないと断られた。
それで、二、三の刀屋に声をかけたがどこも色よい返事がなく。
諦めかけたら、ヤクオフに、辻和吉刀匠の三鈷剣が出品されていて。
でも、さすがにヤクオフで落札する気になれず。真剣ですからね。
そうこうするうちに、十月過ぎにはヤクオフからも姿を消し。落札されたと聞いていなかった。
何件か、作刀を依頼しようかと試みた。
三鈷剣を鍛えられる職人・刀匠は、いないと断られた。
肥後虎という工房なら剣は鍛えられるとホームページに、問題は三鈷柄がつけられない。
自分の欲しいのは。単なる日本刀ではなく、祈りのための剣。
サムライの魂をよみがえらせるための剣。
縁がないものと、何度、何度もあきらめかけた。
それが、なぜか今年の誕生日に、試しに検索すると、あやかし製作所に、ヤクオフに出品されていた三鈷剣が売りに出ていて。
裏を調べたら、あやかしというけど、インターネットで調べるとホームページはしっかりしているし、店舗もある。
そこで、メールで注文したのだが、なしのつぶて。
谷中に店があるのが分かっていたから東京に行くついでに立ちよってみようと。
その時、どうせならばと検索をかけたら。
平成名刀会のホームページの田中範國刀匠の三鈷剣が、引っ掛かり。
それなら、平成名刀会にも行ってみようと
あやかし堂は、谷中に店を構えているが、店をやっている日が限られているから、先に、平成名刀会へ行こうと、鶯谷で降りて、店に行き、店の人に三鈷剣をと切り出すと、何か予期していたがごとく、店の人が振り返る。目前に三鈷剣が陳列されていた。
護国の七星剣を背景にして。
なんでも、研ぎに出していたのがつい数日前に戻ってきて、そのために写真をインターネットに掲載していないとのこと。
どおりで、検索にかからないはず。
範國刀匠の三鈷剣は、ずいぶん前のデータですでに売却済とのこと。
また、辻刀匠には、元締めみたいな人がいて、その人を通さないと作刀も依頼できないとの事。
現在、刀鍛冶も高齢化し三鈷剣を鍛える人も少ないと。
そこで、さっそく。三鈷剣を購入することを決めた。
不思議なのは、平成名刀会の事に思いついたのも谷中に行くと思い立った後で。
また、当日、当初日暮里に間違っていくところを見直ししたら、鶯谷だと気がつかされたことだ。
まるで待ちかねていたように。
簡単に手に入らなかったのも因縁めいて。
でも、なぜか最初から、辻刀匠の剣が手に入るような予感がしていたから。
何度もあきらめかけたのに、三鈷剣、三鈷剣とこだわり続け。
刀は、息子が帰国する前日、家内の誕生日を目前に控えた明日、届けられる。
先週の日曜日には,法多山、一意一願不動に詣でたばかり。
日赤から退院してちょうど一年目にも当たる。
その場で刀の手入れの仕方を教えられた。
手入れは、普通の刀より難しいとのことだが。注意すればできないことはないだろう。
気を集めれば心が籠り。
心が籠れば、命が生じる。
命が生じれば、魂が入る。
魂が入れば、神が宿る。
神剣となって、この世の邪を払いたまえ。
今の日本人には魂がない。
政治資金の問題だって、法の条文ばかりを問題として、政治の話も志の話も出てこない。
北朝鮮がミサイルを打ち上げようと、能登半島で地震が起ころうが、ロシアが、戦争をしてようが、中国が台湾を窺おうが、アメリカで大統領選挙があろうが、パレスチナで紛争が起ころうが、シーレーンが危うかろうが、物価が上昇しようが、これまで何とかやってこれたのだから、これからも何とかなると、根拠もなく思い込んでいる。
私は、天下に物申す時は、本名を隠したりはしない。
顔を隠すのは邪道である。匿名で言いたい放題いうのは卑劣である。
周囲に迷惑をかけるのは、自分が許さない。
だからといって、黙っているのは、なお、嫌だ。
わかってくれとも思わない。妥協もしない。
国を思ってやる事は、周囲からよく思われることが、あまりない。
口に出すのはいいけれど、行動する事は、迷惑となる。
だから、一人行く。
浩然の気である。
自(みずか)ら反(かえり)みて縮(なお)からずば、褐寛博(かつかんぱく)と雖も吾惴(おそれ)れざらんや。自(みずか)ら反(かえり)みて縮(なお)ければ、千万人と雖も吾往かん。
今は、自分のできることを尽くして祈るしかない。
自分は、血の一滴まで日本男児である。
日本人としての魂をなんとか伝えたいに祈る気持ちで三鈷剣を買った。
四月。
研ぎに出すことにした。
何故か。
今一つ、魂の輝きを感じない。
気がつくと、毎日のように磨いていたのだけれど。
刀は研ぎが命と聞いた。
それで研ぎ師を調べていたら、辻和吉刀匠ゆかりの研ぎ師細越敬喜氏のブログにたどり着いた。
それで研ぎに出すことにした。
研ぎは刀に魂を入れるという。
刀を打つの大事だが、同じくらい研ぎも大事。
それでありながら、研ぎ師の名前は伝わらない。
ただ、剣が求めていたように思える。
十月十四日。
待望の研ぎあがった剣が返ってきた。
見違えるようになって帰ってきた。
まことに宝剣となった。
十月二十六日、なぜか、家内が法多山へ行こうと言い出した。
法多山は、高野山真言宗別格本山。
一々願不動でも有名なお寺。
お札を戴いて三鈷剣に供える。
来年は、終戦から八十年を迎える。
剣に祈りと刻んでもらった。
八月十五日が何の日すらわからない若者が増えてぃた。