自己が間接的認識対象というのが重要な点で、それが認識を知る鍵である。
自己を認識する為には、自他の分別が前提であり。
自他の分別は、自意識を前提とする。
っまり、自覚である。
他を知るというのは、他と自分との違いを知ることであり、違いとは差であり、差とは距離である。
差とは、自己と他と基準があって測れる。自己を客体化したものを認識主体、他を認識対象とする。
つまり、認識対象と認識主体と基準点の三点があって差が測れる。
その差を比較する事で距離が測れる。

つまり、対象の認識には、差と比が基礎となる。
比では、等しいつまり、何も何を同じとするか、重要な要点になる。
同じ物というのは、数の原点ともなる。
数は、同じ物を抽出し、それに数を結びつける事で成り立つ。

このような対象認識は、前後左右、高低、遠近、善悪、是非、美醜、好悪等の相対的認識の前提となる。

また、自己の間接的認識は、認識の作用反作用を形成し、認識の作用反作用は、物理学的作用反作用を派生させる。

自己は他者との関わりによって自分を知る。
外界との関わりがなくなると、自分がわからなくなる。
認識上において自己は、一人では、存在を認識できない。

これは、価値観も、意識も、倫理も、自己と外界との相互作用によって形成されることを意味する。
自己の外に向かっての働きが内の向かう働きを同時並行的引き起こす。
それが認識の作用反作用。
つまり、認識とは経験によって形成される。
自己と対象との距離と働きと関係が基本となる。

数学も、物理の認識の作用反作用を基礎として成り立っている。
つまり、知識は、認識を前提として成り立っている。
故に、物理学も数学も相対的。

実際に物理的な作用反作用があるかどうかではなく、認識上で作用反作用としてとらえるのである。

実際に善悪、美醜、真偽があるのではなく。認識上で善悪、美醜、真偽が生じるのである。
一億円という価値があるのではなく、認識上、一億円という価値が成立するのである。
これが大前提。

一メートル、一ヤードというのは認識上の問題で、自然に、一メートル、一ヤードという決まりがあるわけではない。

一時間、一日というのは自然に決まるのではなく、認識上決められているので人為的な事である。
絶対という基準はない。

間接的認識対象だという事は、認識主体の働きと認識対象の働きが同時に働いていることを意味する。
鏡に自分の姿を写すという行為と自分の姿を見るという行為が同時に進行していることを意味する。

他者の死を見て、自分の死を知る。
神は、死を語らない。ただ他者の死を示しと死を暗示する。
死を悼みと同時に、自分の死を予感して怖れる。

認識は、外界に対する働きと内部への反応、働きの二つの働きが同時に働いている。
さわるというのは、触れると言う行為と感触の二つの働きからなる。
話す事は、うちに向かっては考えを整理して、求めるという働きが働いている。
読むというのは、見るというのと頭で再構築するという働きが働いている。

書くというのは書くという行為によって外に働きかけによって内に向かって自分の考えをまとめる。
併せて、自分の考えを外に出す事で直接的認識対象に置き換える。

作用反作用というのは、働きを認識するためには逆方向の働きを想定する事で成り立っている。

観念的な事は認識上の産物であるから総て相対的。
意識は、認識によって成立しているから相対的。
科学も、哲学も、倫理も、宗教も、相対的。

何によって、全体を統一するかで。それは意識ではできないという事ですね。存在、事実のみ、時間は今だけがと言いつできる。そして、自己の存在だけ。

今、目の前の存在とそれを認識している自分、ここからすべてが始まる。
その延長線上にある事のみ根拠とする。
今という連続性によって神羅万象、意識が生み出す世界は成り立っている。