メンバーは、リーダーが、安心して、迷いなく決断できるよう務めるのが、責務である。

リスクをリスクとして覚悟し、最善の決断をする事を、リーダーは、求められている。
どっちに転んでも、悪い結果が予測されるという状況もある。
どちらのリスクが低いかの選択問題でしかない。

リスクは、リスクである。
最悪の事態に陥らないと断言する事は、誰にもできない。
人の一生が死に至る道程ならば。
誰一人、死から逃れる事はできないのだから。
自分の死を最大のリスクとするなら。
リスクから、人は、逃れられない。

人は、最後には、死ぬのである。
納得のいく死か、納得のいかない死かの違いに過ぎない。
ただ、死は納得がいこうが、いくまいが確実に訪れるので。
それをリスクとするなら。
リスクの根底には、結局、生きるか死ぬかの問題が見え隠れする。

それをリーダーは、承知で決断しているとしたら。
リーダーには、常に、ストレスが、かかっている。
メンバーは、リーダーを不安にしたり、迷わせるような、言動は、厳に戒めなければならない。
事実に基づかない憶測、推測による予断
無責任な批判評論
嘘や誤魔化し、でまかせによる報告
リーダーの指示に、基づかない独断的行動
持ち場放棄、抗命、抜け駆は、ゆるされない。
根拠のない流言飛語、噂などによる不確かな情報を確かめもせず伝えるようなことは、不必要にリーダを不安にし、迷わせるから、慎まなければならない。

メンバーは、どのような状況に陥っても、リーダーが、間違った決断を下さないよう補佐するのが、責務である。

リーダーだけに責任があるのではない。
チームのメンバーは、リーダーだけでなく、結果に対し全員が責任を負っている。
会社が潰れれば、無事でいられる社員は一人もいない。
チームが負は、チームのメンバー全員の負けである。

リーダーだけが仕事をしているわけでもない。
リーダーだけに責任があるわけではない。

自分に与えられた仕事を責任を持てやり遂げるのは、人として当然の責務。

仕事を任せられたら、自分から注文を取りに行かなければ、待っていないで。
責任が持てなくなるぞ。

チームワークは、皆の息が合い、それぞれそれぞれの役割を果たしたら、気持ちいいくらいにうまくいく。逆に、みんなの勝手な行動し、収拾がつかなくなったら、気分まで悪くなる。

最悪の結果が出た時、一番、煽りを食うのは、若者なのだ。
それを心の片隅においておく必要がある。

最初にできる事は、「誰が、何を、いつまでに、調べる事にした?」だよ。
いきなり答えは出せないもの。
それに、それは、また、一人仕事になる。
一人で答えを出したら、手詰まりになる。

何から、調べようとしたら、必然的に、問題を確認することになる。

仕事をしたら成果を出す。
そして、成果(報告書などの成果物)を残す
そうしないと、仕事をしたとみなされないから。
だから、報告書を書く。
日報を作成する。
自分しかわからなければ、独りよがりでしかない。
仕事をしているつもりでも、管理者が認識してなければ、仕事をしていない。
報告してない事は、やってない事。

何でもかんでも、客の注文の出し方が悪いとするのは、間違いだよ。
客は、すべてのことに精通しているわけでも、すべての情報を持っているわけでもない。

リーダーも同じ。

指示された事を、文書をもって確認するのも、担当の仕事だからね。
担当は、議事録を当てにしていたら仕事にはならないからな。

ユーザーが言った事を、リーダーが担当に伝え、担当が文書化する。
それを基に、担当が提案し、リーダーが、ユーザーの承認をとって、リーダーが、決定する。
それで、ユーザー、リーダー、担当の関係、役割、責任を明確にした上でやるべき事を決める。

俺関係ないと言ったらおしまいだろ。
親が、お前がどうなろうと子に対して、どうなろうと関係ないと言ったらお終いだろ。
昔は、子どもの不行跡は親の責任、親の顔が見たいと言われたものさ。

社員が会社の業績なんてどうでもいい、それは経営者の責任なんて言い出したらその会社はお終い。
働いている人は、皆、自分と家族の生活かかっているんだ。
自分だけでなく、家族も養っているんだから。
よく言われたよ、社員のかずの四倍の人の生活の面倒を言ていると思えと。

昔は、親父の稼ぎで家族を養っていた。
でも、共稼ぎだとしても、その本質は変わらない。
だから辛くても悔しくても我慢して働いたんだ。
働いているんだ。

家族からも、会社からも、必要とされる。
必要とされているから一生懸命働いた。
家族の顔が思い浮かぶから、ならぬ堪忍、するが堪忍と頑張れた。
自分の為にと思ったら続かない。
お客様の為、家族の為、仲間の為、それがひいては会社の為と。
それを忘れたら、何も耐えられなくなり、とっとと逃げ出すや。

必要とされるよう世の為、人の為に働くので。
自分以外の人の役に立とうとする。
それが、自分の存在意義となる。

地位だの金だのために働いても存在意義は得られない。
地位や金が何に、役立つかである。

誤解してはならないのは、役に立たなくなったら必要でなくなるわけではない。
必要とされるようになるために役に立とうと努力するのだ。
年をとって役に立たなくなったら必要でなくなると言うのではない。

親が親であり、子が子である限り、常に、親は、子を必要とし、子は、親を必要とする。
親は親であることが求められ、子は子であることが求められる。
親が親でなくなれば子は親を必要としなくなり。子が子でなくなれば、親は子を必要としなくなる。

互いを必要としなくなれば利害関係、損得しか残らなくなる。
だから、金の切れ目が縁の切れ目になる。
人が人を、互いに必要とするのは心の問題、存在が問題なのである。

今の学校は、親を親として扱っていない。だから、子は、親を親として認めなくなりつつある。
親は親、子は子として孤立した別の存在と教えるからである。
これは思想である。しかし思想でなく、常識、良識として植え付ける。

かつての親は、父親が失業したり、家族の誰かが病気した時は、家族に事情を説明し、家族の助けを求めた。だから、家族は一致して困難に協力してに立ち向かった。
今は関係ない。だから家族が崩壊する。

リーダーがリーダーであり、メンバーがメンバーである限り、メンバーは、リーダーを必要とし、リーダーはメンバーを必要とする。
リーダーは、リーダーであることを求められ、メンバーは、メンバーであることをが求められる。

リーダーとメンバー互いが互いを必要としている。
その点を正しく認識し、互いを尊重しなければチームはチームとして成り立たない。

リーダーは、常に状況を説明し、分担して問題を解決するように指示する。それがリーダーだ。
独りよがりの結論をいきなり出したりはしない。まず、分担して状況を調べるだろう。​

必要とするので、必要とされるようになるので。
必要とされるから、必要とするのである。

必要とされるから役に立とうと思うので、役に立つから必要とされるのではない。
年寄りや病人は、役に立たなくならば、必要でなくなると言うわけではない。
必要とする人がいるから必要なのだ。

会社が会社であり、社員が社員なら、会社は社員を必要とし、社員は会社を必要とする。
国が国であれば、国民が国民なら、国民は国を必要とするし、国は、国民を必要とする。

学校が必要とするのが、生徒でなく、金ならば、生徒は、学校を必要としなくなる。

わかっていれば、言われなくてもやるだろう。
わかってなければ、言われてもやらない。
わかっていないから、やらない。
だったら、わかっていないことを認めないと。

やればわかる。やらなければわからない。

リーダーの役割は、例えば、
「売り上げが伸び悩んでいる。このままいいたら、赤字になる。
ついてはどうしたらいいか皆の考えをきかせてくれ」
とメンバーに、いま置かれている状況や問題を説明し、取り組むべき事を示せればいい。
それに対し、メンバーは、
「先ず事情を説明してください。
現状を調べる事から始めませんか」と言うように、具体的な仕事を提案していく。

その上で、
「事情を調べさせてください。」
「伸ばしている会社とどこが違うか調べさせてください。」
「市場調査をさせてください」
とメンバーに提案させ。
その中から何をするかを決めて、それぞれに担当を決めて、いつまでにどのようにするのかを指示する。
それが、リーダーの役割。
自分が思い付きで答えを出しても、メンバーが何を分担したらいいのかわからなければ。
単なる独演会で終わる。

リーダーは独りよがりに陥らず。
皆をリードする事をかが得る。
結論を出すのを焦らず。
ゴールを決め、道筋を示し、当座やるべきことを明らかにできればいい。

試合の結果などやってみなければわからない。
その前に人を集めなければ始まらない。

だとした、その時、打ち合わせるのは、どうやって人を集めるかで、仕様は、どんな人が必要かだ。
あたまから、試合の結果を議論しても徒労に終わるだけ。
理想を語っても仕方がない。
その前にまず、手分けして人を集め。
集まった顔ぶれを見て、方針を決めるしかない。

リーダーはそれをリードする人。

どんなに優秀な選手でも、総てのポジションをこなせる選手でも、一人では野球はできない。
一人ではキャッチボールすらできない。

監督、リーダーは、守備位置を決め、全体を掌握、統制するのが仕事。

いつまでに、何をどうすんの、誰に何をやらせるの。
誰に、いつまでに、何を調べさせて、どのように報告させるの。
それを、決めるのが、リーダーで。
結論は調べてみなければわからない。

メンバーはメンバーで、請け負った仕事を具体的に、どのような考え方で、どのように作業を進めるかを詰める。一人で何もかもやろうとすれば、最初から手詰まりになる。

役割分担を決められなければ、いつまで、たっても仕事に着手できない。
三日前に、仕事に着手すれば、実質、三日間の作業しかできない。
一か月前に着手すれば、一か月間、作業ができる。

着手する為には、ゴールを決めなければ、最初に要件、仕様ができない。
何をするのか、ゴールが見えなければ、チームワークはできない。
仕事を確認することを通じて、互いの考えを理解する。
責任者は、自分の考えや意図を相手がわかるように整理しなければならない。
担当は、責任者の意図と考えを理解しないと仕事ができない。

そのやり取り、過程が重要なので。

要するに、人は、記録しないと忘れるという事。

また、共同作業にしないと、組織は、組織として機能しない。
共同作業にならないと人と人を関係づけられない。
とり仕事の延長で、メンバーというより、お手伝いにしかならない。
今の人は、関連付けるのが下手
要素間(人、物、金、情報)を関連付けるのが、組織、計画、予算、システムの基本。

項目を置くというのは、弁当箱を仕切って、場所を作るようなことで、そこに、計画の要素や内容を盛っていくような事だと教えられた。
乾き物(具体的な要素)と水物(変動的な要素)は、一緒にするなとか、同じ籠に全てを入れるなと注意された。

できれば、項目の設定から着手したほうがいい。
出来合いの書式を使えば楽だけど、自分で構想が立てられなくなるから。
特に導入部分は、大事
例えば、主旨、経緯。動機、問題点、構想、目的、目標。背景。総括、反省等。

所定の書式と言うのは、一種のマニュアルだよね。
穴埋め問題。

人で統一する、合わせる。
だから、担当を置く。

担当を置けば原因と責任の所在がわかる。
原因と責任の所在がはっきりしたら、次に、教育、異動、評価によって、矯正する。
それが人事の仕事。

板前が何もしないで、店長が寿司を握っているなんて最低だよ。
かといって、客を無視して板前が自分勝手に寿司を握るのもね。
請け負った仕事は、担当が責任をもって仕上げる。
その為には、担当は、リーダーに、注文(オーダー)をとるだろう。

担当の構想、方針に従って、責任をもって担当をした仕事を仕上げる。
それが、大人。
リーダーに、いつまで、何を、どの様に仕上げたらいいか、聞くだろう。それも速やかに。

担当した仕事に対する責任は、担当が負うんだからな。
リーダーの要求、注文にそって自分の仕事の段取りを付け、責任を持って仕事を仕上げる。

寿司の注文を受けたら、寿司を握るのは、板前の責任で、寿司の握り方まで、店長や客が指図するわけではない。
切符を買ってこいと言われて、時間までに切符を買う段取りは、切符を買い行く段取りするのは、担当した者で、時間や道順まで指示されなければ仕事ができないのでは、任せられない。

担当した仕事は、担当して者が、最初から最後まで責任をもって、やり通す。
そうでなければ分担の意味がない。

だから、当然、リーダーが、どの様な考えで、どの様なものを要求、期待しているのかを聞き取り必要がある。
客を無視して寿司を握っていい訳ではない。
客の注文に応じて寿司を握る。
でも寿司を握るのは板前の仕事。

何をやるかが決まれば、仕事の構想が立ち、仕様が決まり、関係者やメンバーに゙説明がつく。
例えば、次の会議に゙提出するプレゼ作成することになった。
プレゼの主旨、目的は、何々で、構成は、☓☓。それでこの部分を誰々に担当してもらうみたいに。

担当責任者と担当とは違う。
担当責任者は担当マネージャを意味し、担当は、ワーカーを意味する。

担当が決まったら、仕事をさせる。仕事をさせることで、仕事にする。
プレゼや資料の作成に置き換える。
プレゼや資料の作成には、作業が伴う。
作業には仕様(いつまでに、誰が、何を、どのようにするか、費用)がある。

仕様があれば工数が計算できるようになる。

ただし、企画書、計画書、報告書、確認書を用意、作成するのは 、担当者だからね。

担当した仕事の段取りは、担当がするんだからね。
指示待ちしていたら、仕事にならない。

仕事を確認することを通じて、互いの考えを理解する。
責任者は、自分の考えや意図を相手がわかるように整理しなければならない。
担当は、責任者の意図と考えを理解しないと仕事ができない。

仕事として教育を考える際、要件定義から着手しないと仕事が始まらない。
取り留めなくなって、いつまでも、仕事が始まらない。

教育とはなんぞやという議論を始めると、底なし沼に入り込む。
作業を伴わないから、掴み所がないからである。やりようがない。心象でしか語れないから。

漠然とした話に終始すると何の結論も出ずに時間ばかり経過することになる。
はやい段階で作業に落とす。

ダラダラ話しているくらいなら仕事をしろ。

漠然と、教育計画を立てましょうではなく。教育の基本計画書を作成しましょうとする。
そのうえで、教育の基本計画書の要件定義に話を移す。
まず、要件定義をするために、基本計画書の項目を上げる。

項目は、教育の基本計画の書式にのっとる。
表題を決め。担当、提出先、提出日と、先に、項目を置く。
この段階では、項目だけに留める。
ヘッダーの項目を設定したら次に、中身の項目を設定していく。
例えば、目的、方針、考え方、責任者、担当、組織、対象、日時、場所、段取り、概要等など。
その上で項目毎に、作成仕様を決めていく。
手順に項目を並べ。全体の外枠を決めた上、どういう手順で作業を進めていくかを、ユザーと担当が打ち合わせる。

基本的には、上から決めていく。
ただ、一つの項目に囚われるのではなく、常に全体の項目とのバランスを考えながら、どの様に決めるかを打ち合わせる。

まず、目的の素案を誰が、どのようにいつまでに決めて。誰に報告し、どこで検討し、誰が決めるのかを、予め決める。
その時点で確定している項目は、書き込んでおく。

目的を考える際も、現実に即して考える。

間違っても、いきなり、項目の中身を一人で書き込まない。
共同作業にしていく。それが仕事。

何を教育するのか。
わからなくて、あるいは、知らなくて困っている事、ありませんか。
できなくて、困っていること、ありませんか。
あったらそれが教育すること。
例えば、營業なら、販売計画を立てる必要があるけど、販売計画の立て方がわからない人がいるとか。
販売計画は立てられるけど、個人差が大きくて、管理できないとか。
原価がわからないから見積もりが立てられないとか。

考え方としては、計画が立てられなければ、計画の立て方を教育する。
報告の仕方を統一したければ報告の仕方を教育する。
見込み客を決めて報告できなければ見込み客に客リストの作り方を教育する。
会議の設定の仕方、運用がわからなければ、会議の設定の仕方を、手続きや、計画書の作り方などを題材にして教育する。

要は、職場の教育は学校の教育と違い。何らかの必要性に基づいっている。
だから、ニーズ、必要性、ユーザーの要求を正しく確認するところから始めないと最初から仕事の目的がぶれてしまう。

わからない事があったら、聞くさ。
聞かれたら、相手も、質問の意図を聞くだろ。
「どういう事、何が知りたいの」って。
そうすると、質問の意図を整理して、相手に説明しようとするだろ。
「質問の目的は、こう言う事で、知りたいのは、こういう事さ」
そうすると相手は一生懸命考えて。
「自分の答えはこうだけど、それで納得した」と聞き返すさ。
この一手一手で自分の考えもわかってくるし、深まっていく。
一つ聞くたびに、一つ扉が開く。
これが問答。
同時に相手との考えの違いも明らかになる。
違いも分かれば、共感できる事も出てくる。
根本的な事で共鳴共感できた時、同志となり、組織が生まれるんだ。
焦らない焦らない。
車も、最初はローでスタート。
徐々に加速していくから。
最初ゆっくり・ゆっくり、段々、速くなる。
スピードが出たら修正は難しくなるから。
山道を転がり落ちる大岩のように。

後先、上下、左右で均衡を保つように進捗を調整する。
それが、マネジャーやリーダーの仕事。

ユーザー(トップ)が言った事を、リーダー(責任者)が担当に伝え、担当が文書化する。
それを基に、担当が提案し、リーダーが、ユーザーの承認をとって、リーダーが、決定する。
それで、ユーザー、リーダー、担当の関係、役割、責任を明確にした上でやるべき事を決める。

誰の指示に従うか。
それによって、組織における自分を位置づけをする。
自分の役割は何か。それによって。自分と他のメンバーとの関わり、関係を知り
自分が何をするのかによって、自分の働きを知る

大事なのはきずきだよ。
自分を知ることさ。

自分を必要としてくれる人がいる。
その裏側に自分が必要とする人がいる。

誰も必要としていないと粋がるのは、自分を誰も必要としていないと強がるような事。
誰も必要としていないと言う事は、他の人の存在を頭から否定する事。
その裏返しに、誰からも必要とされていないと宣言するような事。
それは、限りない孤独へと誘う。
リーダーが人の輪の要と言うのなら、リーダーは、他人を頼り、関連付け、結び付けるのが役目。
己の限界を知らず、人を頼ることを知らない者は、リーダーにはなれない。
己の限界を知り、他人を頼ると言う事は、他人を信じ、愛し、受け入れる事。
人を信じ受け入れる事が出来ない者は、リーダーにはなれない。

わかっているようでわかっていない。
それは、私の事。
自分の事こそ、わかっているようでわかっていない事。
人生は、自分探しの旅さ。