人間に対する洞察力なしにジョブ型雇用とか、メンバーシップ型雇用を議論しても虚しい。

ジョブ型に適している仕事と、適していない仕事がある。
ジョブ型に、何故するのか。
まず、この点を明確にする必要があるが。
いずれにしても、議論をする以前に、ジョブ型と言うのを定義しておく必要がある。

ジョブ型というのは仕事を基礎とした雇用形態である。
それに対し、メンバーシップ型というのは、人を基礎とした雇用形態である。

ジョブ型と言うのは、目新しい概念ではないし、日本にも古くからある考え方である。
現に、わが社でもずっと以前から採用している。

例えば、、配送や検針・集金、パートやアルバイト、派遣は、典型的なジョブ型雇用である。
つまり、ジョブ型と言うのは作業を基礎とした雇用形態を指している。
ジョブ型を成立させるためには、仕事を、時間や成果、作業で特定できることが前提となる。

それに対してメンバーシップ型と言うのは、人を基準とした雇用形態で、日本固有の雇用形態ではなく。
世界一般に存在している。何も、特別な雇用形態ではない。
例えば、経営や管理、研究、開発など、創造性の高い、作業を特定できない仕事は、一般に、ジョブ型雇用が適さないとされている。

ジョブ型が成立するためには、就職する以前に、一定の職業訓練や専門教育がなされていることが前提となる。
今日の、日本の決定的にかけているのが、この職業訓練である。
日本の学校教育は、あくまでも、学術的なことに重きを置き、実業を軽視する傾向が強く。
多様性や、個性を重んじるのではなく、一律一様の教育を目指している。皆、同じなのである。
個性や適性、多様性より、一つの基準に基ずく偏差値を重んじている。
職業訓練は正規の学校がやる事ではないという頑な思い込みがあって。
専門高校を普通高校の下に見たり。
実業、実用、実務に結びつく教育は、読み書きそろばんのような低俗的なものとし。
職業訓練は、高齢者、障害者、求職者支援に対するものだと決めつけている。
象牙の塔といわれるように。
学術的な専門家の育成機関に高等教育を特化してしまっている。
そのために、ジョブ型雇用を成立させるような職業訓練がされていない。
故に、日本の企業は、入社後に職業訓練、専門教育をせざるをえない。
だから、企業内訓練、OJTに企業は頼らざるをえないのである。

社会と学校生活との間にある超えらない壁、溝がある。
それを埋めないと、純粋のジョブ型を導入するのは難しい。

親父たちは、以前、新入社員は、一人前に育てるのには、時間がかかる。三年は、会社の持ち出しなんだよ。それが、一人前に育ったころに、やめてしまうとこぼしていた。
日本では、文学部や法学部出身者が、コンピュターのオペレーターになるなんてことは不思議でもない。
コロナ対策大臣が経済担当(経済の専門家とは限らない)の横滑りなんてことが往々に起こる。
それは、専門性より人間関係が重視されるからである。
ただ、では、メンバーシップ型は、日本固有化というとそういうわけではない。

欧米では、表立っては、ジョブ型が目立っているというだけで、欧米には、堅固なメンバーシップ型雇用が存在するが、それは、異邦人がうかがい知ることができないというだけだ。
要は定型化できない、経営とか、管理とか、研究、開発等という業務は、メンバーシップが重んじられる。
仕事という観点から差別を考えたら、宗教も、思想も、階級も、人種も、違う労働者を管理するためには、差別のなくしたほうがいいというだけで、別に、思想信条の問題ではなく、技術的問題にしかすぎない。
だから、欧米人とっては科学なのである。思想的な問題は、別の問題である。
日本人固有と言うならそれを、思想信条の問題と取り違えっているという事は、日本人独特と言えるかもしれない。
差別が生じるのは、どちらかと言うと雇われている側の方で、差別用語と同じで、その言葉で差別されていると感じるから生じるので、
例えば、イスラム教徒徒やユダヤ教徒は、食事や労働時間によって制約が生じたりするからで、それを特別扱いすべきかどうかが問題。

例えば、女子プロの懸賞賞金を何を基準とすべきかと言った問題と同じ。
試合以前に人種的、宗教的な差別があってはならないという事。
ただ、選手以外の仕事でメンバーシップ型の雇用がないわけではない。
コミッショナーとか、オーナークラブは、当然、排他的であある。

なぜ、今、ジョブ型が議論されているのかと言うと、日本的雇用は、どちらかと言うと属人的基準が多く入り込んでいて低成長時代にそぐわなくなて来てから、見直そうと言う事で。
では、何が属人的かと言うと例えば、年齢、性別、家族、学歴、序列、出自等。
だから、年功序列がやりだまにあがっている。

属人給を基礎としたのには、それなりの理由があったので、その理由を知らずに、是か非かを問題にしても意味がない。
属人給というのは、生活給につながる。終戦直後は、その日の生活にも事欠いた。
住む家もなく、食べる者にも事欠いた。
みんなが助け合って生きにぃて来たのである。給料は、生活に直結していたのである。
だから、生活状況を給料に反映せざるをえなかったから、家族構成だとか、結婚だとか、年齢などを加味せざるをえなかったからで。
今日のように、住む家に困る事はなく、飽食と言われるけれど、所得は増えず、少子高齢化で将来の負担がふえる事が明らかだから、今までのような、年功序列型の給料ではやっていけないという事なのである。

終戦直後は生活に困窮していた。生きるのがやっとだった。
それでも、少ない資源を分かち合って生きてきた。
ただ、一人ひとりが、世の中の役に立つよう一生懸命、努力していたのである。だから、生活給が成立していた。

そこで、属人的な部分を切り離し、仕事中心な給与に切り替え、個人の負担を軽減、均等にする。それが、ジョブ型への切り替えを意味する。

ジョブ型を徹底しようとすれば、スタバやマクドナルド等の外資のチェーンストア のように、店長も含め全てをアルバイトにすることになる。
外資のチェーンストアは、もともと、ジョブ型なのである。
アルバイトと言いても、社内検定制度や、経験期間によて、賃金にも格差や等級が細かく決められている。

ただ、ジョブ型を導入するためには、どれくらい作業を洗い出し、標準化し、割り切れるかがカギ。
大企業や工員のように、最初から、作業が特定されている仕事を、ベースにしてるという事を、忘れてはならない。
あらゆる仕事を、漏れなく、重複なく、すべて読み切れるのなら問題ないが、曖昧なところがあれば、組織や、仕事は、スカスカになり穴だらけになる。
全ての作業を読み切れなければ、隙間を埋めるような仕事が求められるのである。
また、野球のように守備位置は決められても、守備範囲は確定できないという仕事もある。

ジョブ型で問題となるのは、労働の品質で、労働には、質と量があり。
どこまで、労働価値を量化できるかが最大の課題。
労働の質とは、熟練度、技術、経験、安定性などを言う。
故に、欧米では、経験不測の若年者の失業が常に問題となる。
ジョブ型で問題とされるのは、仕事の精度、密度である。

ジョブ型というのは、労働の質が均一に保たれている事であることが前提となる。
また、最低限の水準が維持されていなければ成り立たない。
しかし、現実には、個人差は、想像以上にあり、そのばらつきが、職場を維持するのが困難なほどに広がっているという事なのである。
しかも、個性を重視しろなどと教育しているからなおさらである。

決められた仕事を、決められた時間までに、決められた通りに仕上げられるか。
全ての人間が均一に仕事を仕上げられるという前提に立つから成り立っている。

もう一つ問題となるのは業務の範囲である。
例えば、百人の会社で、過半数以上が営業といった同一の業務に就いている会社があったとして、総務や人事、経理という業務に従事する社員が、一人とか二人とか限られた人数だった場合、人事ローテーションが全くできなくなるという事もある。

いずれにしても、ジョブ型雇用は、仕事の量を正確に事前に計測しておかなければならない。
このような仕事は、第一に定型化された仕事でなければ成り立たない。
故に、職務経歴書ではなく、職務記述書でなければならない。

要は、ジョブ型に適している仕事を特定しなければ、失敗する。
営業を、完全歩合にしてもジョブ型にしたことにはならない。
それは、営業は、成果を特定できないからである。
営業をジョブ型にするためには、成果を正確に計測できなければならない。
ジョブ型では、結果だけで評価されるかだからである。

プロスポーツを例に考えると、投手という仕事は、評価するのか、大谷という人を評価するのか。
何によって業績を評価するのかである。
野球選手というのを一つの仕事として割り切り、一括りにしていいのかである。
同一労働同一賃金というのなら個別の評価は成り立たなくなる。

高級料亭は、新入社員は、ゼロ、基本ができていないという認識に立って躾けるのに対して、大衆食堂は、基本ができているという視点いたっている。その結果、高級料亭に勤めた子と大衆食堂の躾けの差となる。
高級料亭に勤めた子は、箔が付く。

ただ、今の日本で職業訓練みたいな教育をしているのは、スポーツ界だけではないだろうか。
以前は、職人の世界でも徒弟制度が、職業訓練所の役割を果たしてきた。
会社でしか生きていく為に術を取得できないとしたら、仮に、そのコースから外れたら、誰が、生きていくための術を教育するというのだろうか。
学校に社会性が感じられない以上、社会人として必要な知識、つまり、常識や技術を誰がおしえるのか。
読み書きそろばんは、学問ではないと言った高慢な姿勢で学校がいる限り、学校生活と社会生活との間にある溝は埋まらない。

世の中を俗と考え、学校を聖なるものと位置付けている事にこそ問題がある。
なぜ、農業の技術や物を作る技術より微分積分の方が高尚だと言えるのだろうか。

労働に関する根本的考え方、思想や組織に関する考え方を抜きに、ジョブ型か、メンバーシップかを語るのは馬鹿げている。
人事制度は、前提となる時代背景や、歴史、その国の文化や制度、風習、価値観、宗教、生活状況を前提として成り立っているので制度だけを切り離いして論じても虚しいのである。

人中心の組織にするのか、仕事中心組織にするのか、そこを明確にする。
多くの組織は、人中心とする部分と仕事中心とする部分が混在しており、それが、各々の都合よく解釈されている傾向がある。
いずれにしても組織のコアとなる部分は人中心である。この部分をAI化しようなどと考えない事である。
そこにこそ、組織の魂があるからである。

誰と、どのように生きていくか。人の一生をどう考えるか。人は生きるために働くのであって。働くために生きているわけではない。一人ひとりの生き方の問題なのである。
ジョブ型が是か非か、メンバーシップ型が是か非かありきではない。