サラリーマン。
人は、一生、変わらない忠誠や愛、友情を捧げられる対象を、求めているものさ。
一生、忠誠を誓える、愛を誓えるものが見つかれば、一生、変わらない道徳や自分が持てる。
終生、自分のアイデンティティが保てる。
ところが、サラリーマンは、それが、最初から許されない。
サラリーマンには、定年がある。
この点が、これまでの、組織と決定的に違う。
一生を共にしよう。
一緒に生きていこうと誓えない限り、全て、嘘で、話す傍から虚しくなる。
定年がある限り、自分の総てをかけて、全身全霊と言っても、約束できない。誓えない。
最後に、なぜ。
俺は、なんなんだ。
誰のために働いているんだと…。
虚しく問わざるを得なくなる。
根がないのである。根無し草なのである。
サラリーマン化される前は、人は、指導者や、組織、仲間、同志に一生を捧げた。
サラリーマンは、一生、捧げるなんて言うと嘘になる。
定年が定まっているのである。
寝食を忘れ、多くのことを犠牲にして、一生懸命働いても、退職すれば無に帰してしまう。
虚しい。
どんなに頑張っても定年に達するとすべてリセットされる。
忠誠なんてしたくてもできない。
若者達はそういう大人の姿を見て育った。
昔、お世話になった石油元売会社の重役が、定年退職後、自腹をきって経営塾を開いた。
最初は後進を指導したいと系列の若手経営者を対象とするはずだったが、存外、集まりが悪く。
段々に、退職後のかつての部下の集まりに変質していった。
その方がおられた石油元売会社は、他の石油会社と合併し、消えてしまった。
それなのに、経営塾は、その方がおられた会社の人間関係そのままなのである。
今はもう、この世には存在しない会社が、あたかも生きているようにふるまう。
彼らには、懐古ではなく、現実なのである。
それが、サラリーマンである。
退役軍人の集まりの様な会になってしまった。
退職してから天下国家を語ったとしても虚しい。
それは、百も承知しているけど、そうしなければいられない。
居場所がない。
その方は、ある時、「やめたいけれど、この会をやめたら。一歩も外へ出ないかつての部下が、いるんですよ。」と哀し気に呟いた。
引き籠りというが、若年の引き籠りよりも高齢者の引き籠りがより深刻なのである。
我々の周りはサラリーマンだらけである。
しかし、サラリーマンの歴史なんてせいぜい百年たらず。
本格的に普及したのは、戦後である。
それなのに、まるで太古から続いていると、多くの人は、錯覚している。
しかし、歴史は、まだまだ浅い。
夫婦に定年があったらどうなるであろう。
現実に仲違いして別れる事はある。
しかし、最初から、ある一定年齢に達したら、赤の他人なると、定められていたら、健全な夫婦関係が築けるだろうか。
定年間際の者は将来に責任が持てない。
約束したところで責任が持てない。言うことも軽くなる。
後輩の為を思って忠告しても。
あなたは、五年後には、この会社にいないでしょと言われたらそれまでである。
今日、定年を迎える者は、明日の約束はできない。
責任を果たせなければ、名誉も、誇りも持てない。
仲間もその時限り。
だから、業績も虚しい。
仲間に対する信義も忠義も絆も責任も一時でしかない。
定年になれば消え失せる。
自分の足跡も残せない。
自分の命には限りがあるが、組織の命脈は限りがない。
何百年も、何千年も、組織が続く限り、自分の足跡を記憶していてくれる。
だから、背信行為や不正はできなくなる。
そう信じられれば…。
でも、そう信じさせてくれない。
信頼なんて、愛社精神なんて。
取引先に対する責任も定年まで。
そうなると、契約は、金でしか贖えなくなる。
人や国、地域コミュニティに忠誠を誓う事でアイデンティが保たれてきた。
この人のために。
仲間のために、組織のために。
そう思うから、我慢もし、耐えてもきたのに。
金ではない。
金の問題ではないと言ってみたところで。
先がなければ、先が見えなければ、先に責任が負えなければ…。
金しか残らない。
そう思うと悲しくなる。
自分が守らなければならない存在、それが、失われれば、自分のモチベーションが保てなくなる。
道義心も虚しく、無意味に思えるようになる。
考えてみよう。
本来、会社は、二十四時間社員を守り続けている。
社員でなければ、病気になっても家族以外は誰も助けてくれない。
事故すれば、すぐに駆け付けて処理してくれる。
だいたい生活費を稼がせてくれる。
だからこそ、社員と会社は、持ちつ持たれつの関係が築かれてきた。
一方的な関係ではなかったはずだ。
だから、首をかけて諫めもした。
首をかけるとは、サラリーマンにとって人生をかけること意味してたはずなのに。
哀しい事に、定年が近づくと急に臆病になる。
定年までは、首にはなりたくないと。
サラリーマンだって、人間なのである。
サラリーマン社会が浸透する以前の組織は、一生、面倒を見るのがあたりまえっだった。
自分だけでなく親子代々、子や孫まで、面倒をみた。一代限りの方がまれ。
だから、入団する時、献身、忠義、誓いが求められた。
その名残が入社式。
命がけだから、騎士道も、武士道も生まれた。
サラリーマンには、騎士道も武士道も無縁。
一度、正式に入団が認められれば、内者になる。身内になる。
会社以外の組織では、一度、身内になると原則、終生、抜けられない。
それはそれで問題だけど。
会社の社員は、定年を迎えると、自動的に外へ放り出され、否応なくよそ者にされる。
一度外へ出たら、自分の会社に人生の軌跡を残すことも許されず。
自分が寄る辺ない存在であることに気付かされる。
愛社精神にも定年ができる。
ある日、突然、お前は、この会社とは、無縁な存在だと言われたら、
伝統も、継承も、歴史で、空疎で無意味なものでしかない。
その会社の伝統も、歴史も、継承も、その会社の一員だからこそ意義があるのだ。
でも、自分の人生をかけて働けないとなると、エゴや金の為だけでしかなくなる。
自分のためにだけ、私的な動機しか働けない。
許されない。
花束を贈られ拍手され。ご苦労様と送りだされたら…。
ある日、忽然とそれまでの人間関係も業績も消えてなくなる。
せかっく、培った人脈も立ち枯れてしまう。
助け合う、信じ合う仲間もなく。
誰からも尊敬されず。
認められず。
敬意も払わられず。
社会から孤立し、無視されていく。
どこにも自分の居場所がない。
それなのに忠誠だけが求められる。
それでは、社員の士気もモラルも保てないから、お前も努力をすれば社長になれると嘘をつく。
そんな噓すぐに見破られる。みんなそれほど、馬鹿ではない。
誰もが社長になれるわけないし。
誰の為、なんの為に耐えろというのか。
正社員でなければなおさらである。
表面をとり繕う事しか考えない。
ばれたところで定年までである。
会社にも、同量にも、先輩にも、恩も義理もなくなる。
これでは、自分のモチベーションを保てない。
刹那的でしかなく。
楽して儲ける事しか考えなくなる。
苦労しても、無駄にしか思えないからである。
以前は、同志に誘う時、俺の死に水をとってくれと誘い。
覚悟をさせる時、骨を埋め鵜覚悟しろと諭した。
死に水も、骨を埋める場所も意味がない。
一生面倒を見ることも見てもらうことも、期待できない。
期待できないから、信頼も期待もしない。
本来、最初にあるべきなのは、誓いである。
病める時も、健やかな時も。
富める時も、貧しき時も。
愛し、敬い。
慈しむことが誓えますか。
でも、誓えない。
だって、限りがはじめから定められているから。
限りがあるから、結局、稼ぎ、金の関係でしかない。
いくら尽くしても、所詮、金のためだと言われたら美徳も信義も空疎になる。
愛社精神なんて、持ちようがない。
親分子分の関係も、主従も、成り立ちようがない。
人間らしい関係が築けないなら、金の関係しか残らない。
金しかないから、金にも地位にも汚くなるさ。
金や地位のためしか働けないのだから。
そういう大人を見て、子は育つ。
人間世界に幻滅するのは当たり前。
やってもやらなくても、定年退職してしまえば、同じ。
忠義だ、忠誠だと言ってもきれいごと、嘘でしかない。
そんなこと言われたら鳥肌が立つ。
でも、あこがれはある。
その証拠に漫画の世界では、忠義や、忠誠、誓約、信義という言葉が飛び交っている。
子供たちの現実は、仮想現実。
確かに、忠義、信義なんて子供にとって絵空事かもしれないが。
でも、金、金、金の世界も薄汚い。
大人なんって汚い。嘘、嘘、嘘と何も信じられなくなって引き籠る。
組織というのは、この人の為にとか、志とか、仲間の為に、組織の為に、この国の為にとか、自分以外の何者かに仕えるから成り立つ。
他者との関係がなければ成り立ちようがない。
今の世は、他人との関係を拒絶する。
他人の関係が築けなければ、組織は砂のようにバラバラになる。
他人との関係は、信頼の上の築かれる。
その信頼を最初から否定するような社会では、健全な組織は築けない。
この人の為に、仲間の為に、同志の為にと思うから、忠誠や誓いが求められる。
そこに美学があり。生き甲斐が生じる。
それまでは、どこまで言いても自分でしかなく。
金しか信じられない世界である。
心ない世界。
情けない世界である。
最初の一生を誓い、契約を交わす。
それがあるべき姿なのである。
サラリーマン社会は異常で、異様である。
それが諸悪の根源にある。
終身雇用が悪いとだれがいいだしたのか。
日本だけでなく。かつては、終身雇用が当たり前。
なぜなら、社会保障なんて存在してなかたったから。
組織から皆なされたら、無宿人とされ、まともには、生きていけない。
なぜ、定年退職が正当化されるのか。
それは、代替わりがうまくいかないからである。
確かに従来の仕組みでは、高齢者の負担を担いきれない。
年寄りにも役割や居場所はあるはずだ。
古武士のように。
高齢者対策とか定年延長というのではなく。
若者にバトンタッチしながら、苦楽を共にしたものと一生を共にしたいだけだ。
サラリーマン社会を打開し。
一生かけて信じられる何ものかを作り出さない限り、この国に未来はない。
新約である。新約するのである。