わからない事、できない事には、理由がある。
何故出来ないのか、なぜ分からないのか、そこが問題だ。
事情がわからないと、手のうちようもないし、施しようもないからね。
経験しているか、していないかが決定的であることがある。
何故できなのか、何故わからないのか、理由はたくさん思い浮かぶ。
事情や状況がわからなければ何もできない。
経験していなければわからない。
知識がないからわからない。
技術がないからできない。
資格がないからできない。
一人だからできない。一人ではできない。
経験してないことは、経験しないとできない。
わからないことは教えてもらわないとわからない。
例え、初歩的な事でも。
否、初歩的なことほどわからない。
「そんな事、わかっているよ。常識だよ。」と言いたくなる事が基本だけれど。
いざ、他人に聞かれた時、答えられないと、立ち往生するのも。
何かを始めようとした時わからないと困るのも基本。
他人にわかっていないことが知られるのは、恥ずかしいし。
かと言って知らなければ、教えられない、始まらない。
今更、知らないとも言えないし。
ある一定の年令に達した人は、誰もが知っていて、誰でも、わかる、できると思われている事、それが基本であり、常識。
だから、知らないと始末が悪い、聞くに聞けない。
できないとも、わからないとも言えない。
頓死である。
基本や常識は若いうちに身に着けろと、厳しく言われたものだ。
大体、わかっているとしても、何がわかっているのか。
相手が言っていることが分かったのか。
自分が何をしたらいいのかがわかったのか。
相手が言っていることが分かっても、自分の考えがわからなければ対処のしようがないし。
どうしたらいいのかわからなかったら、どうしようもない。
どうしようもないと、とかく、自分も含めて人の性にする。
自分が理解できない事は悪い事にしたい。
わからない理由、できない理由が見つからないと、人の性にしたがる。
あいつが悪い、自分が悪いと。
そして個人攻撃を始める。
しかし、人を責めたからと言って問題が解決するわけではない。
むしろ、問題を拗(こじ)らせるだけだ。
なるほど、できない、わからない理由の多くは、人の力に関わる。
能力の問題が全くないとは言わないが、もっと重要なのは、自分ができない事を認めようとしない事。
あいつがミスした性だ。
だから、どうなんだ。
知りたいのは、何が足りなくて、どうすれば補えるかだ。
困るのは隠し事されることの方だ。
原因がわかれば、対策の立てようがある。
個人を責めても対策は立てられなくなるだけだ。
問題は、何故できないのか、何故わからないのかの原因である。
事情が、わからなければ、事情を聴く。
経験が不足しているなら、経験のある人を探す。
自分より優れた人を探す。
そして、相手を認め受け入れる。
よくできる人は自分ができないことを認めたがらない。
よくわかる人ほど、自分がわからない事を隠そうとする。
できない事は、わからない事は、自分が、相手より劣っていると思われると思い込んでいるからで、自分が優位な立場に立てないと錯覚している。
わからないと認める事は、自分の弱みを晒す事と錯覚しているからだ。
たとえ自分ができなければ、できる人を探してくればいいので、自分ができなかったり、知らないからと言う事が仕事において決定的な事ではない。
決定的なのは、自分のできない事、知らない事をチームのメンバーに伝えないで、全体に対し自分が間違った事をする事である
本当に困るのは、できないのにできるとし、わかっていないのにわかっているとされることで、いつまでたっても、仕事が先に進まない事。
できないならできないと解れば、やりよう、仕様があるというのに。
いいとか、悪いの問題ではない。
自分の責任を果たしているかいないかが問題なので。
責任は、自分の役割から生じる事で、悪いのは、嘘、背信、欺く、怠慢、手抜き。
故意に、指示された事、結論と違う事をやる。あるいは、指示された事を、やらない。
決められた故意に時間をずらす。違法な行為等を言う。
過失による、ミスや偶発的事故、不可避な出来事などは責任を問う事は難しい。
また、試合中にエラーの責任を問うような行為で、基本的に問う行為自体に悪意があるとみなされる。
先ず、自分に与えられた役割、責務を果たす事に専念すべきなのである。
一番、困るのは、自分は、悪くないと頑なになられることで、知りたいのは、客観的事実である。
いいとか悪いという事ではなく。
起きた事に対して、適切な対応をする事が求められているの事を忘れてはならない。
火災の時は、先ず火を消す事を考えるべきで、火を消してから、原因や責任を問うべきなのである。
特に、最終的な結果が出てないならば、先ず、目的を成就する方策を優先的に考えるべき。
エラーの責任を問う前に試合に勝つことに集中するべき。
自分は悪くないとか、絶対に正しいとするのではなく。
自分が与えられた責務を果たす事である。
自分の限界を認め、自分を許し、他人を受け入れる。
先ず、事実を正しく認識し、前向き、建設的な対策を講じる事が大切である。
仕事が進展しないのは、能力とはまったく関係ないとは言わないが、能力は、決定的要因ではない。
それより事実を事実としてとらえられない事の方がずっと深刻なのである。
自分ができなければ、できる人を探せばいいので。
わからない事はわかる人に聞けばいい。
困るのは、人を信じて任せられない事で。
何でも一人でやろうとする事が一番困るのである。
わからない事は、わかる人に聞け。できない事は、できる人を探せだ。
人を責めても時間の無駄である。
試合が終わるまで勝敗はついていないのである。
先ず、勝つ為にはどうしたらいいかを考えるべきである。
仕事のできない人は、仕事のわからない人の話を聞いている。
仕事ができる、できないをどこでわかるかって、簡単だよ。
仕事をやっている人が仕事のできる人。
わからなくて困るから、調べるので。
何がわからないかを共通するから、共同で調べる。
敵の動きがわからないから調べるので、私は、わかっていますと、憶測、推測でわかったふりをされたら、一緒に敵の動きを探れなくなる。
一番問題なのは、知ったかぶりされること。
解決の糸口が見つからなくなるからだ。
自分が、自分達が、出来ない事、わからない事を正確に、素直に認める。
特に、初歩的、基本的、常識的と思われる事ほど、率直、素直に認める。
時が経つと基本から学ぶことに抵抗が生じる。
わからない理由、できない理由は、初歩的、基本的な事、単純な事、簡単な事が多い。
初歩的、基本的、常識的、単純で簡単なことほど聞くのが恥ずかしい。
いいと思えばいいし。
悪いと思えば、悪い。
ちょっと視点を変えただけで見えてくる。
馬鹿じゃあないんだから、視点を変えれば見えてくるよ。
そんなにシャチョコばっていることはないよ。
ちょっと目線を変えれば景色も違って見える。
例えば、担当が決まっていない。指示がきちんとされていない。
指示をちゃんと出す。指示をすることは悪い事ではない。
指示、命令は、悪だと、学校で教育されているため、指示、命令の仕方を教えられない為、指揮官が育たない。
指示は、組織の基本であるから、これが悪だとされたら、組織が機能しなくなり、溶けて解体してしまう。
指示が悪いというのは、主審が、プレイ・ボールとコールするのは強制だからしてはならないという様な事である。
強制のない社会はない。
なぜなら法は強制であるから、強制がない社会は、無法な社会になるからである。
自分がわかっていても、実際に作業をする人に伝わっていなければわかっていない。
自分ができても、実際に作業をする人ができなければできない。
担当者が仕事できるようにする事だ。
考えなしでも、作業はできる。
しかし、それでは言われた事しかできない。
自分で仕事を組み立てたり、判断したりする事は、最初の考え、全体の考えを自分のものにしないとできない。考えがなければできない。組み立てようがない。
担当者が、何も考えないのは、
考えられない状態だから、考えないので。
担当者が、考えられる状態にする。
言ったはずとか、知っているはずとか、わかっているはずと言っても、確証がなければ、裏は取れない。
文章にする。文章にしなければ、誰にも伝わらない。
また記憶に頼っている限り、詳細の仕様を詰める事ができない。
だから、文章にして、他の人にもわかる様にする。
人の記憶はあてにできないもの、記憶に頼っているから、言った言わないの議論になる。
記録があれば、そんな不毛な議論もしなくて済む。
どのような考えに基づいて、何を、誰が、いつ、どこで、どのようにするのか。
どのような考えに基づくか。この部分が共通していて、あとの部分が変わる。
どのような考えが基になる。
考え方がわからなくても作業はできる。
ただ、それは、いわれた事に限ってである。
自分の考えで仕事をするためには、全体の考えを理解しなければならない。
組織の仕事は個人の考えで動いているのではない。
個人の仕事は、全体の意志に基ずくからである。
だから、仕様の冒頭に目的(なぜ、どうして、考え方、方針等)が来るのだ。