始まりは問う事。問題を投げかける。
答えをだすことではない。答えを出すのは先の事で。
問われたら応える。
問われても応えなければ、問答は成り立たない。
まず、問え。
問われたら応えろ。
黙っていては、問答は成り立たない。
これが、問答。
問答が学校の教室では成り立たない。
本来、会議は、問いかけから始まる。
「どう思う。」
「どうしたらいいと思う。」
それに対し、問いかけられた者は、返答をする。
これは、返事であって、正解ではない。
だから、決めるのである。
答えが用意されているなら決める必要はない。
学校の教室では、ただ、教師が一方的に教えるだけ。
これでは、生徒は学べない。
考えることが許されないから。
問う事も応えることも許されない。
応答がない。
なぜならあらかじめ答えは決められていて、道筋も決まっているから、迷う必要がない。
迷ってはいけない。
生徒は、決められた道筋をたどって答えに到達するだけ。
何も決める必要がない。
不思議に思って決めたら逸脱するだけ。
故に、師と弟子の関係は成り立たない。
弟子が問い、師が応える。
師が問い。弟子が応える。
先生と生徒の間には、問答がない。
あるのは暗記すること。
問答無用の教育である。
今の学校には、問答はない。
リーダーなのだから、他人に任せればいいのに、他人に任せたらリーダーでなくなると、自分勝手に思い込み。人に任せられないからリーダーになれないので、任せられればリーダーになれる。
人の話をよく聞けば、リーダーになえれるのに、リーダーだから、人の話を聞いてはいけないと思い込んでいるから行き詰まるので、人の話が聞けたらリーダーシップが発揮できる。
ミーティングは、まずリーダーが問い、それにメンバーが返答し、返答を聞いて、リーダーが決める。
職場は、学校とは違う。
試験のように、所定の時間内に答えを出して、先生が採点するのと違う。
意見を聞いて決めるのであり。答えを出すのとは違う。だから決める。
答えを出すのが目的ではなくて、決めるのが目的。
ちょっとだけでいい。
考える癖をつける。
何故だろうと。
考えることをやめたら、何も考えられなくなる。
黙って従うしかない。
学校や多くの会社は、考えること禁じた。
その結果、何も考えられない人ばかりになった。
なぜだろう。誰が得するか考えてみよう。
考える事をやめたら馬鹿になる。
馬鹿になったら自分の考えが持てなくなる。
自分の考えが持てなければ、我を忘れる。
我を忘れたら、他人に無条件に従わざるを得なくなる。
隷従するしかない。
ちょっとした違いが、後々、重大な差になることがある。
例えば、応答の間が悪いと仕事のリズムが乱れて、決めきれなくなったり。
体制が崩れたり、勢いがなくなったりする。
手順が狂えば、段取りが組めなくもなる。
内容より、こういった、些細な挙止動作が及ぼす影響で、仕事が頓挫する事も多い
しかし、このようなことで仕事が頓挫しても原因はつかみにくい。
最初はちょっとした違い。
面倒と手抜きから始まることが多い。
仕事のできる人は、最初から手を抜いたりはしない。
機先を制するといってね。
経営者は、たとえ個人事業主であっても、二十四時間勤務。
それに対して、サラーリマンは時間で仕事をしている。
経営者に休みはない。サラリーマンは、しっかり休みを取る。
休まないと叱られたりする。
経営者はどこにいても責任がついいて回る。
サラリーマンは職場を離れれば、仕事を忘れられる。
そのちょっとした差が、とてつもない差となる。
行動を見ろ。行動こそ雄弁だよ。
何が言いたいか、真意は段取りや順番を見ればわかるでしょ。
言葉で言えば野暮になる。
誰の意見を最初に聞いて。誰の意見に従っているか、それを見れば、何がいいかは、一目瞭然。
あなたを信用していると口に出したり、あなたが取り仕切りなさいといえない時もあるし。
重要視しているから代表して叱られたり、身代わりに罰せられることも。
「責任をもって」とみんなの前で叱責されるのは、お前が責任者だと宣言されたようなこと。
指示されて、「わかりました」と答えても、速やかに行動に移さなければ、「何も、わかってない」とどやされた。
いろんな仕事を任されるのは、信じている証拠と。
言葉で示された事より、実際にやった行動や態度のほうが雄弁に語ることがある。
それだけに、行動や態度といった形に示されたことを、正しく理解しないと、真意が伝わらなかったり取り違えたりして、致命的な間違いをする。
黙っていても、黙っているからこそ、行動や態度を見れば伝わってくることがある。
リーダーや実務屋は、言葉より行動を重視する。
いくら、おべんちゃら言ったところで行動が伴っていなければ、実がない。
行動を起こしてはじめて実現の目途がつく。
行動に移さなければ、何も実現しない。
口に出したら、次は実行あるのみ。
マネージャーの仕事とは膨大な作業を複数の人に結びつけて、順序よく組み立て、繋いで、全体を構築していく事。
だから、いつ何処で、誰と誰に連結し、あるいは指示や情報を伝え、誰の意見を聞き、提案し、どうやって、誰に決めてもらうかに細心の注意を払ってきた。
時々刻々、状況や環境が変化するために都度つど、変化に合わせて、作業や組織を組み替えることも求められる。
自分の考えがなければ組み立てられない。
なぜ、書類をつけさせるのかというと書類を作ることで仕事を覚えるからで、また書類を作ることで仕事が整理で、覚えられるから。
だからプロは丁寧に書類を作るのに、素人ほど面倒くさがって、書類をないがしろにする。
なぜ新人に書類をつけさせるのかというと、言葉で仕事の手順、段取りを教えるより。実際に書類を作らせたほうが仕事を覚える早道なのだけど。
多くの人は書類を作るのは、余計な仕事だと思っていい加減にしかやらない。
それでいつまでもいい加減な仕事しかできない。
一般社員や一人仕事をしている人には、なかなか、文書や手続きの重要性が理解できていない。
ただ、鬱陶しくて、面倒で煩わしい。
こういう人間が、管理職になると、文書や手続き、報告は形骸化し、本当に、煩わしく、厄介で、無用な事になってしまう。
意味も分からなければ、意味もなく文章も手続きも増えてしまう。
現在の仕事は、書類と手続きと報告によって成り立っている。
仕事は無数の作業から成り立っている。
また大勢の人で構成されている。
「お金」の出納は、正確に計算されなければならない。
そのために、一つひとつの作業を目的に応じて記録しておく必要がある。
それが、伝票で書類である。
最近の政治と金の関係を見ても分かるように、伝票や書類は身の潔白の証ともなる。
逆に、書類がそろわないと、身の潔白は証明されない。
記録さえ残っていれば仕事を再現できるが、記憶だけを頼っていたら、仕事の段取りはわからなくなる。
どこが悪くて、どこを改善したらいいかも検証できない。
仕事の軌跡を追跡できなくなるからで。
その典型が、会計簿記である。
計画は、一連の書類を完成することによって完了する。
書類を作成することによって仕事を管理し、組織を制御するのである。
だから、書類や手続きの意味が分かれば、組織を動かす事が可能となる。
逆に、目的もなく書類や手続きを増やせば、目的のわからない仕事が増えることになる。
報告制度は、報告を求める人のロジックに基づいて設定される。
前任者の作った既存の報告制度、書類、帳票を無批判に使えば、前任者のロジックで動かされることになる。
要するに、過去の亡霊に操られることになる。
穴埋めのような仕事をしていたら、仕事の構成や組み立てができない。
塗り絵のような仕事になる。
できれば、白紙から仕事をすることを覚える。
書式や項目が予め定められていれば、とりあえず形はできる。
ただ、それでは、穴埋め、塗り絵的な仕事になってしまう。
一通りの仕事を覚えたら、ゼロから仕事を起こすことを覚える。
歳を取ると、ついつい、人、見下すようになりがちで、折りにつけ自戒している。
人から、学ぶことを忘れたら、終わってしまいまう。
社会に出たら年齢などは、関係ないのですけれど、歳を取るとついつい歳の差を盾にして威圧しようとする。そうなったらおしまい。
いつも、同世代の仲間には注意しているのだけれど。
歳をとったら地力では若い連中にかなわない。
それを前提にして、若い連中の話を聞かないと間違ってしまう。
これから先のある人のために、支援するのが、我々の役割と心得ていないと、意味もなくふんぞり返っている無様で、哀れな、自分の姿に気が付かされる。
歳をとると自分の衰えを受け入れらないで、虚勢を張りがち恥ずかしい事だ。