分析をする場合は、目的を明確にする。
データを分析の目的は、基本的に次の三点にある。
データ分析の目的は、第一に、予測。
第二に、構造や仕組みを解明する。
第三に、法則や原因を明らかにする。
分析の目的は、用途や動機。
つまり、結果を何に役立てようとしているかにかかっている。
用途や動機は、目的に通じるのである。
分析結果を何に活用するか、つまり、分析結果の用途は、リスクを避ける。災害に備える。対策を立てる。最善の策を講じる。自分が望んでいる目的や目標を達成する。
現在のリスクを知るためには、現象の背後にある仕組みや構造、原因を明らかにする必要がある。また、将来のリスクに備えるためには、予測を立て、計画や予定、予算を決めておく必要がある。どちらも推測に基づかなければならない。要は、推測(統計)と確率の問題である。
答えを導き出すためには、最初に問題点を明らかにし、しっかりと問題を設定しておく必要がある。
問題の設定が出来たら、次に、何に根ざすか。根拠を明確にする。ここがポイントである。
リスクとは、何か。リスクとは不確かな事である。不確かな事で何が困るのか。そこに動機が隠されている。困る事があるから状況を分析したり、予測したりする必要性が生じるのである。
先ず、その辺を探る事から始める。
自分が望んでいる目的や目標とは、言い換えると自分が望んでいる状態を実現する事である。自分が快適な家に住みたいと望んでいたら、快適な家に住める状態を実現する事である。それが目的を達成する事である。
この点が重要なのである。例えば、コロナ対策の目的は、コロナがない状態を望んでいるのか。それとも、コロナがなくならなくても脅威にならない状態にする事を望んでいるのかによって対策の内容が微妙に変わってくる。それを明らかにするためにコロナによってどの様な不都合、困る事が生じているのか。あるいは、将来、コロナによって困る事が予測されるのかを明らかにする事である。
経済を分析する目的とは何か。
それを明らかにするためには、経済ては何か。そして、実際、経済の何で困っているのか。また、将来どんな事で困ることが予想されるのか。その点を明らかにする事である。
経済とは、生きる為の活動である。つまりは、生活である。という事は、経済で困るというのは、生活に関わる事。生きていくうえで困る事である。
生きていくために困る事というのは、基本的に衣食住に関わる事で。中でも、食に関わる事は、即、命にかかわる。
生きていくうえで困るというのは、外的に攻められる事と内輪で揉めることである。
つまり、経済を分析する目的とは、生きていく事で困る事を解決し、また、将来生きていく事が出来なくなるような事に備える事である。
となると、経済を分析する目的は、第一に、将来、生きていけなくならないように、リスクを予測し、リスクに備えておく事、第二に、生きていけなくなる原因を解明し、解決する事。第三に、生きていけなくなるような状況を改善する事の三点である。
経済の仕組みの目的は、全ての人の生活が成り立つようにする事である。
全ての国民が生活するのに必要な資源を生産、調達する事と、それを、抜けなく、漏れなく、重複なく、全ての人々に分配する事を目的としているのが、経済の仕組みである。
経済を分析する目的は、経済が成り立たなくなる原因を明らかにし、対策を立てる事である。
経済は、生きる為の活動を意味している事を忘れてはならない。
経済は、金儲けが目的なのではない。
生活を成り立たせることが、経済本来の目的なのである。
故に、経済を分析する目的は、いかに、全ての人の生活を成り立たせるかにある。
何を根拠とするかは、現在、起きている事実。
そして、過去の事例である。
つまり、現実の事象と仕組み、そして、歴史を根拠とする。
歴史から学ぶことである。
禁物なのは、根拠なき楽観である。
事実を事実として受け入れる事から分析は始まる。現実を直視する。
根拠を明確に示す。
経済の目的は、第一に、人々が生きていく、即ち、生活していくうえで必要最小限の資源を調達・生産する事。できれば、一定の生活水準、豊かさを享受できるようにする事。
第二に、調達・生産した資源を遍く、必要なだけ、効率よく分配する事。
第三に、国民の生活、権利、生命財産の安全を確保する事の三点である。
故に、経済分析の第一義は、全ての国民が最低限の生活が出来るように、生きていくうえで必要な資源を生産し、調達する事である。
そして、調達し、生産した財を如何に、効率よく全ての国民に配分するのかが、あるいは、配分できているかを分析するのが、第二の目的である。
今の経済は、一国の力だけでは経済は回っていかない。
いかに、世界と強調して必要な資源を世界各国価から調達するかが、経済の鍵を握っている。
だからこそ、世界中の国が自国の国力を高めようとしている。
なぜならば、自国の国力が低下したら国民生活に必要な資源を手に入れられなくなるからである。
だから、死に物狂いで戦っているのである。自分の力でやっていけなければ他国の御情けに縋るしかない。それは隷属を意味する。
相手国の都合で、生かされも殺されもする。そういう厳しい現実の上に一国の経済は成り立っている事を忘れてはならない。
国防と経済は、密接な関係がある。
戦後の日本は、意図せずか、故意か、いずれにしても、国防が経済に与える影響を無視してきた。
それは、戦後の日本の経済、財政の重大な欠陥である。
その為に、日本は、国家戦略が立てられなくなった。
当然、国家戦略に基づく経済政策も建てられない。
国防という視点が経済から失われたのである。
経済は、生きるための活動。つまり、経済に必要な財とは、生きていく為に必要な資源。
生きていくうえで最低限必要なのは、衣・食・住である。
そして、衣食住に準じる資源。光熱費、それに、交通費、通信費、金融資産。
これらに必要な、エネルギー資源である。
更に、自己実現に必要な教育費や趣味、娯楽、遊興費である。
また、人生にかかわる冠婚葬祭、事故や災害、病気などに対する備え。
収入を得るための生産手段に対する投資。
国防、治安、防災等に対する公共の費用。
これらが、生活をしていく為に必要とする資源。
そして、これらを手に入れるために必要な所得を獲得するのが経済活動の基本である。
つまり、働いて、生産し、生産した財を売って「お金」を得て、獲得した「お金」で生活に必要な財を手に入れて消費する。
生活に必要な資源をいかに調達し、あるいは、生産するか。
それが、経済の基本的課題である。
経済が破綻するというのは、生活に必要な資源を必要なだけ調達、生産できなくなるか、適性、かつ、効率的に、遍く分配ができなくなった状態をいう。
経済の動きは基本的に上下運動に置き換える事ができる。
増減、拡大か縮小かも上下運動に置き換えられる。増える事や拡大することは、上がることに還元できる。故に、比較、差、推移によって個々の運動を分析する事は可能だ。
問題は、個々の関係をどのように組み立てるかにある。
経済の運動は、前提となる位置と関係、そして、場に働く力(拡大、上昇圧力等)によって制約される。そして、運動は、動きの方向、力、量、速度から成り立っている。
経済を分析する際重要となるのは、何を、根拠、前提としているかである。
即ち、初期設定、初期条件である。初期設定を間違えると後の分析はすべて無駄となる。
消費者は、「お金」を支払って市場から生活していくのに必要な資源を手に入れる。
「お金」は、交換の手段である。
商品を購入するために必要の「お金」は、仕事をする事で手に入れる。
「お金」は、分配の手段である。「お金」は、手段であって目的ではない。
「お金」は、分配の手段というだけでなく、生産と消費を結びつける手段でもある。
人は、仕事を通じて生産に関わり「お金」を稼ぎ。仕事で得た「お金」で消費を実現する。
生産と消費を結びつけるのは、市場取引であり。貸借取引ではない。この点が重要なのである。
経済の基本は、人口である。
市場で取引される財の経済量は、貨幣価値によって測られる。
全ての仕事が、換金できるわけではない。
市場経済が発達する以前は、経済主体は、自給自足していた。
経済主体内部の仕事を内部労働とし、経済主体外部で報酬を得る仕事を外部労働という。
内部労働は基本的に非貨幣性労働とする。
市場経済が拡大するに伴い内部労働が縮小し、現在は、家事等の家内労働くらいに圧縮された。しかし、非貨幣労働に経済的価値がないのではない。換金されないだけである。
社会的分業が未分化の時代では、生産拠点と消費拠点は、一体だった。
社会的な分業が発展するに従い生産の場と消費の場が分離され分配の場である市場が形成され。
そして、経済主体と消費主体が自立した。
分業が深化した現在、生活に必要な商品は、夥し数に上る。数も種類も多種多様である。
その一つひとつが必要とされる量も、それぞれ、違う。それを調節するのが市場の役割。
市場から必要な物を手に入れるためには、「お金」がなければなれない。
消費者は、予め、「お金」を用意する必要がある。「お金」は、使えばなくなるので支出に見合うだけの「お金」を経常的に補給し続ける事が求められる。
つまり、収入と支出は一対なのである。
経常的収入が支出を制約するから、経常的収入の総量と平均、分散が市場規模、経済規模、そして、生活水準を定める。
「お金」は、分配の手段であるから、全ての人が生活に困らないように配分されなければ経済は、正常に機能しなくなる。市場経済の多くの問題は、「お金」の配分の不適合に起因する。
経済の最終的目的は、生活に必要な資源を遍く漏れなく分配する事である。
生産、調達できる資源の量によって生活水準は決まる。「お金」の量で決まるわけではない。
豊かさは手に入れられる物の量と質、すなわち、密度で決まるのである。
手に入れられる物は、どれだけ支払い手段、つまり、「お金」を準備できるかによる。
貧富というのは、相対的概念で分配の齟齬から生まれるのである。
経済は最終的には、「お金」の問題ではない。だからこそ「お金」が大切なのだ。
「お金」は、最終的な問題に行きつく過程で決定的な役割を果たしているからである。
「お金」は経済的価値を一元化し、市場取引に写像する。
経済がうまく回らなくなるのは生活に必要な資源が人々に行渡らなくなるからである。
食べていけなくならないようにする事。食べられなくなったら、経済は、お終いなのである。
国民が生きていけない状態になったら戦争だって厭わなくなる。
戦争の背後には、経済の問題が隠されている。
食べられないというのは、飢餓を意味している。
餓死する者が出始めたら経済はいよいよ危うくなる。そして、経済こそ争いの種なのである。
経済が破綻した時、争い、戦争や内乱、革命が始まるのである。
経済の仕組みの目的は、全ての人の生活が成り立つようにする事である。
全ての国民が生活するのに必要な資源を生産、調達する事と、それを、抜けなく、漏れなく、重複なく、全ての人々に分配する事を目的としているのが、経済の仕組みである。
経済が成り立つようにする為には、第一に、全ての国民の生活が成り立つ、生きていくために必要な資源を生産、調達できるようにする。
第二に、全ての人の最低限の生活が成り立つように分配をする事である。その為に、所得が、一定の範囲、幅に収まるように配分する仕組みを構築し、維持する事である。
経済を分析する目的は、以上の目的を達成する為に疎外となる要素を取り除き、市場が正常に働くように制御するための対策を立てる事にある。
経済主体は、其々、共通の属性、働きによって部門を構成する。
部門には、家計、財政、非金融企業法人、金融機関、対家計非営利団体、海外部門の五つがある。
家計は、主として消費を担い。非金融法人企業は、生産を担当し、金融機関は資金の融通、一般政府は、所得の再配分とインフラの整備、国防と治安、教育を受け持つ。一般政府以外の公共事業を請け負うのが対家計非営利団体である。
国際交易が発達し、国際分業が深化した今日、他国からの輸入がないと一国の経済は維持できない。
資源を他国に頼らなければならなくなったら国際決済の為の準備か必要となる。その為には、輸出が必要となる。海外交易を受け持つ部門が海外部門である。
資金の貸し借り、遣り取りの結果、即ち、資金の過不足は、部門毎に蓄積される。
今日、国民の生活を維持する為に必要な資源のうち多くの部分を海外からの輸入に依存している。
国民の健全な生活を維持する為には、海外から必要な財を調達しなければならないのである。
戦争は、必要な資源を国家間で争奪する事が第一の要因である。
この点を理解せずに、平和は語れない。
生活に必要な資源が得られなくなれば人は野垂れ死ぬ、餓死するか、強奪するしかなくなるのである。だからこそ、国産競争力が重要なのである。
特に島国であり、エネルギーなどの海外依存度の高いわが国において国力の低下は、即、国民生活に影響を及ぼす事を忘れてはならない。
資金不足に陥った時、不足した資金を補う事が出来なければ、経済主体は、経済的に破綻する。
経済の尺度は、環境や状況の変化に影響を受けない、それ自体で基準が定まるような絶対的尺度ではなく。環境や状況の変化に伴って伸び縮みする相対的尺度である。それは、経済的尺度は、分配の為の尺度であり、分配を前提として価値を測るための尺度だからである。
前提となるのは、市場取引の総和は、ゼロ和だとい事である。言い換えると資金不足主体があるという事は、必ず、資金余剰主体が生じ、全ての経済主体の資金の過不足の総和は、ゼロになるという事である。
経済主体間、部門間の資金の過不足を補う方向に「お金」は、流れる。
この「お金」の流れが経済の仕組みを動かしているのである。
経済分析の目的を達成する為には、経済主体間、部門間の資金の過不足を明らかにする必要がある。
その上で、資金の過不足を調整し、市場に、資金が、円滑に循環するような方策を立てられるようにするのが、経済分析の任務なのである。
一つの目安は、実需とストックの関係である。
実需とストックの関係を維持する事が出来なくなる境界線が経済の仕組みの限界の目安となる。
実需というのは、市場経済を成り立たせている根本的働きの現れだからである。
家計が資金不足になるのは、一つは、所得を消費支出が上回る。二つ目に、可処分所得を借金の返済が上回った時。三つ目に、所得を上回る一時的な出費がある場合である。
市場経済では、所得の平均と分散と物価水準を均衡させるのが鍵となる。
民間企業が資金不足に陥るのは、第一に、経常的収入を経常的支出が上回った時である。損失は、一つの指標であって損失が出たから、即、資金が不足しているとは限らない。
ただ、損失は、資金不足の要因にはなるので注意が必要なのである。
第二に、支払準備金を借金の返済が上回った時である。
第三に、投資や災害等の多額の支出が発生した時である。
企業が、資金不足を補う手段は、第一に、現金売上を増やすと同時に売上金を回収する。第二に、資産を売却する。第三に、増資する。第四に、借金をする。第五に、保険金や補助金などを受け取る。
一般に生活にゆとりができると、所得を全て使い切らずに一部を貯金するようになる。
この影響で、一般に、経済が成熟するに従い、家計は、資金余剰主体を形成するようになる。
貯金は、金融資産を形成する。金融資産を裏返すと、金融資産は、金融機関の債務である。つまり、預金が増えれば増える程、金融機関の負債も増える。
それに対して非金融法人企業は、一般に、投資の為に、生産設備に資金を投じ。それを長期間かけて回収する。故に、資金不足主体となる。
資金余剰主体である家計から資金不足主体である民間企業に資金が融通される事で、市場に資金が循環するようになる。通常、経済の仕組みは、家計から企業への資金の流れによって動いている。
この関係に現在、異変が起きている。バブルが崩壊したことで、企業は、資金調達力・担保力が低下し、投資を控える様になった。その結果、家計の余剰資金が運用先がなくなった。その捌け口に一般政府はなっている。一般政府が捌け口にならないと、資金が金融市場に滞留し、市場に資金が廻らなくなるからである。
一般政府は、公的な事業や市場経済にそぐわない業務、国防、治安、防災、教育などの仕事を受け持つと同時に、立法、行政、司法といった国家を維持させる仕事を受け持つ。
市場経済における一般政府の役割は、まず第一に、経済主体が経済的に破綻しないような環境を整える事である。
第二に、資金が市場に循環するようにする事である。
第三に、公正な分配が実現できるような仕組みを作る事である。
経済主体を破綻させ、資金が市場に循環させなくし、公正な分配を阻害する要因は、極端な格差であり、富の偏在である。
極端な格差をなくし、富の偏在を均すのが一般政府の役割である。
金融機関というのは、資金不足の主体と資金余剰の主体の間を取り持ち、資金の過不足を融通するのが仕事。巨額の資金が溜まていても、その「お金」に手を付けるわけにはいかない。金融機関の収益は、あくまでも預金金利と貸付金利の金利差にある。故に、低金利は、金融機関の収益を圧迫する。ゼロ金利が続けば、経営が成り立たなくなる。
故に、低金利が続けば、金融危機が発生するのは、必然的帰結なのである。
経済分析は、資金が廻らなくならないようにする事と言っても過言ではない。
資金が市場で正常に働くためには、「お金」が円滑に市場を循環する必要がある。
個々の経済主体でいえば、現金収支の問題である。「お金」の貸し借りが出来なくなったら経済の仕組みは動かなくなる。
現金収支が機能する為には、売り買いの資金と貸し借りの資金が均衡している事なのである。
「お金」の貸し借りが成り立たなくなるのは、所得や経常的な収入の中から借金の返済が出来なくなった時である。
だからこそ、売買と貸借が均衡するように操作するのである。
ところが、現在は、借金の返済資金が経常的収入や所得を上回り、借り換えによって「お金」を廻すようになってきた。
この様な状態が改善されないと早晩市場は、市場としての機能が果たせなくなる。
こうなったら、いつ、どういう形、どの様にして経済の仕組みは限界に達するのか。
限界に達した後、経済、市場で、何が起こり。どの様な状態になるのか。
そして、どの様にして、経済を立て直し、どの様な経済に体制を再構築すべきなのかを明らかにしていく事が、経済を分析する目的となるのかもしれない。
なぜ、経済を分析するのかを知りたければ、自分達が何によって生活しているかを考える事だね。
それを知る事が、経済を分析する第一の目的だよ。