なぜ、仕事ができないのか。
それは仕事の基本ができていないからで。
じゃあなぜ、仕事の基本ができていないのか。

仕事の基本。もっと言えば、社会人としての基本常識が身についていない。
仕事の基本だって、社会人の基本だって、一朝一夕に身に着けられることではない。
それを承知していたから、親父たちは我々を厳しく躾けた。
子供を躾けられなくなったのは我々の世代からだ。

我々はそれを認めた上で。どこで、何を、どうして間違った(間違ったのである)かを明らかにする比津余がある。
それは、我々のせめてもの罪滅ぼしでもある。

やっぱり、我々は間違った。それを認めないで言い訳をしたところで何も改善されない。

一つは、学校教育への偏重にあると思う。次に考えられるのは、核家族化などの家庭環境の変化。

昔は、学校と家庭、地域社会が分担して、子供の教育をしてきた。
私が子供の頃は、まだ、中卒や、高卒が多くて。
大学なんていける人間は限られていた。

子供の頃から家の手伝いをさせられ、女の子は家事の手伝い、男は家業の仕事の手伝いをさせられ。
そこでいろいろと躾けをされた。
また、地域差会では冠婚葬祭、近所づきあいや月々の仕来り祭りなどとして日と人の付き合いや礼儀作法などを叩き込まれた。
中には、若衆宿のようなコミュニティの様の事すらあった。

昔はよかったなんて言う気はないが、ただ少なくとも、学校、家庭、地域社会が分担して子供を教育してきたことは確か。
今の様に、何もかも学校教育に依存するという事もなかった。
以前は、家業の延長線上に教育があって、猫も杓子も大学に行くなどという事はなかった。

職人も、読み書きと言った必要最低限の教養を身に着けたら、早く腕に職を覚えさせることが大事と。

一人前の社会人として社会に出る為には、組織人としての基本を身に着けておかなければならない。
かつては、社会人として必いうな最低限の知識や礼儀作法の私的な部分の躾を家庭が、公的な部分も教育を地域社会が担ってきた。

今は、家庭でも躾けてはいないし、職場でも仕事の基本を教えられる人がいなくなった。
要は、家庭は人としての人取りの躾をする場ではなsくなったし、職場は全人格的な修行の場ではなくなった。

学校教育に教育が偏重されるに従って、伝統的価値観がすべて否定され、受験勉強に教育は集約されていく事になる。
それによって社会の多様性は失われ、全人口のサラリーマン化が進んだ。

今や、サラリーマン以外の人は、人でなしの様に。
仕事も標準化、平準化、マニュアル化が進み。
誰がやっても同じ結果でるようにしくまれるようになる。

どの結果、自分で最初から最後まで一連の仕事を組み立てられる人がいなくなった。
一連の仕事を組み立てられないという事は、仕事を体系的に組み立てられる人がいなくなり、働かないおじさん、仕事のできない人ばかり。
これは由々しき事態。
でもそれすら理解せず、若い時代を無為に過ごす。
何とかなるさと。何とかなったのはそれでも仕事のできる人がいたから。
でもこの調子で行ったら仕事のできる人がいなくなるのは時間の問題。
その時慌てても総ては後の祭り。
自分の力で生きていけないのに誰も助けてくれない状態に追い詰められる。

日本では、かつて、リーダーの事を、差配、支配、頭、仕切り、親分、棟梁、世話焼き、束ねと呼んだ、これは、リーダーの働きを象徴している。
つまり、リーダーは束ね、差配し、指図し、仕切るのが役割であり。
チームの頭でもある。また、親として面倒を見て、世話を焼く。
先ず、なぜ仕事ができないのかを考えてみよう。

第一に、昔と違い、社会に出た時点では、基本的素養、常識が備わっていない。できていないという事をである。
それを教える側も、教わる側も前提としなければならない。場合によっては教える側も基本ができていない。

間違っても自分たちはできる、わかっているとしてはいけない。
そうなると教えるとか、教えtないという以前に自分たちも一緒に学ばなければならない。
この点を間違うと最初からボタンを掛け違える。

第二に、仕事の構想が持てない。どこから、どこから着手して、どう組み立てたらいいかわからない。
何をしたらいいのか、何から始めて、どうやって分担したらいいかわからない。
だから、タスクを管理できない。

構想が持てなければ、作業が洗い出せない。
作業は目的や方針が決まっているから洗い出せるので、目的もゴールも方針もわからなければ、作業を洗い出しようがない。

仕事をする前に、少しでも考える癖をつける。これから取り掛かる仕事についって考えてみる癖をつける。簡単でいいから。

仕事の全体像がつかみにくくなったこともある。
システム化や、機械化が進んだことで、仕事の効率は良くなったが、反面、ブラックボックス化する部分が増え、仕事がつぎはぎ状態になり、仕事の全貌を把握しにくくなった。

典型は、会計処理であり、システム化される以前は、記帳に始まり、仕分け、集計、決算処理まで手分けして人力で一貫してやってきたのが、システム化されることで多くの部分がブラックボックス化された。そのため効率は上がったが、仕事の全容はつかみにくくなった。

結果、簿記の分からない経理、仕分けのできない経理が増えたのも事実。

どうすればいいか。
仕事を始める前に考える癖をつける。
少しでもいいから、一日のはじめに、今日は、どうしようって考える。

第三に、仕事の始まりを準備できないし設定もできない。
その日の状態を見て、その日にやることを洗い出し、そこにいるメンバー作業を割り振っていく。
それを可能としていたのは、仕事が比較的シンプルだったからだけど。

準備、用意する癖もつける。
ちゃんと準備しないで、仕事にとりかかろうとすると叱られた。
準備もしないで仕事はするなと。準備の中に始業点検も含まれている。
最近、仕事の前に準備する人が少なくなったが、かつては、必ず、どんな用意、準備をしてきたか確認された。
そのうえで仕事に取り掛かる準備をした。それが、プロの仕事と。いわゆる作法。
仕事に着手する前に道具を並べてみる。
仕事のできる先輩は仕事の準備、点検をしながら仕事の構想を練るのである。

一番、悪いのは、だらだらはじめて、いつまでもきりがつけられない仕事で。メンバーのモチベーションの保ちようがない。
何かあっても、出だしまで戻れないし、いつまでたってもゴールが見えない。
登山で例えればその時点で遭難しているのである。
大海を目的地もわからないで漂っているみたいなもので。

議事録一つとっても、準備や用意をしておくと、全然違ってくる。
議事録なんて会議が始まってから準備しても、酷い時は、会議が終わってから準備すけど、それでは議事録をつける意味がない。

第四に、指示が出せない。声が出ない。
意外かもしれないが、声が出ない事が致命的になる事が往々にあるし。
いざという時に声が出ないものなのである。声を出すというのは大切なことだが、軽視している人が多い。
剣道でも声出し訓練をしているのをよく見る。

最近、さっと指示を出せるリーダーがいなくなった。声が出ていないのである。大きい声が。
出せてもちっさな声で、ハッキリとしない事をつぶやいて指示したつもりになっている人が結構いる。
我々は声を出すところから訓練された。それが、仕事の手始めで、声も出なければ仕事が治まらないと。
これはスポーツも同じ。
声を出すというのは、気合を入れる事で。
以前、声の大きい人にはかなわないと。

第五に、休みが多い。

休みが多いというより自分の時間を細切れにしている。

これも学校教育の弊害で、休みというより、ここからここまでの時間は、学校で、ここから先は、遊び、家に帰ったら、家の顔と使い分ける事を奨励しているような。
こんなことをしていたら人格が分裂してしまう。

職場でも、五時から男とか。
職場の顔と、遊びの顔、家庭ではいいお父さんみたいな使い分け。
男であり、サラリーマンであり、夫であり、父親でと使いわける。

休みを多くすればいいと考えている政治家が結構いるみたいだが、休みはただ多ければいいというのは間違えで。
親父たちは休みを増やすことに反対で。
なぜ、休みを増やすことに反対なのかというと仕事が中断してしまうと再度、仕事を起こすのは大変と。
当人たちも休みでも休もうとしなかった。親父たちをどう休ませるか悩んだもの。
休みの次の日は仕事にならないと。

何か勘違いしている人が多くて、休みの日はすべて仕事は忘れると。
そういう日があっても悪くはない。
ただ、休みの日は仕事の事を考えてはいけないと決めつけるのはどうかと思う。

仕事で重要なのは継続で、自分の生活を時間単位で細切れにしたら、何の一貫性も取れなくなる。
何一つものにできない。集中できなくなるので。
本当の自分がわからなくなる。

第六に、時間管理ができない。

時間管理ができないというのは、プロセスを管理できないという事で。

一貫して、通しで仕事をした経験がない人が陥りがち。
つまり、仕事の全体像が見えていない。
特に、頭、出だしが理解できない。

作業の洗い出し、お膳立て、根回し、分担、差配、段取り、枠組み、組み立て、管理、監督といった一連の流れが理解できない。把握できな管理者が増えた。

よく、目的や情報を共有しましょうなんて言うけど。
共有ってどういう事、どうすれば共有できるのか。
何でもかんでも共有というけど、なぜ、どうやれば共有できるかがわからなければ虚しいではないか。

共有する事が必要なのは、共同して仕事をしているから。
つまり、チームワークは目的や、情報を共有してないと、まとまりをなくすから。
てんでんバラバラに仕事をやっていたら、いつまでたっても終わらないし、まとまらない。
仕事というのは基本的に共同して一つの事を成し遂げる事。事を成すこと。
その為には、全員が一つの目的や情報を共有する必要がある。

では、どうするれば、目的や情報を共有できるか。それは、プロセスにある。
組織的に仕事をするというのは、メンバー全員の働きをより集めて、一つの事を成し遂げる事で。
全体をどうまとめるかというと、一つの過程を共有する事で一人ひとりの行動、働きを統一する事で、全体をまとめる。

ここで重要なのは、全員の働きをより集めるという事。つまり、全員が働かないと仕事は成せないという事。
一人ひとりの働きを引き出さない事には組織は成り立たない。
指示しただけでは、一人ひとりの働きを引き出したことにはならない。
指示されたことを、指示された者が実行しないと、指示は効力発揮したことにならない。
指示された者が実行しなかったり、指示された事と違ったことをしたら指示そのものが無意味になる。

入力だけでは、駄目で、出力があって、はじめて、組織は敵な仕事は成り立つという事。
たとえば、指示は、指示をされただけでは成り立たず、指示された事を行動に移すことで、成り立つと行く事。
ハッキリ言えば指示されたもやらなければ、指示したこと、指示された事にならない。

実務屋としてよく躾けられたのは、個人の性格や能力を問題にしても容易には変えられないし、下手をすると個人攻撃になる。誹謗中傷、感情論が先行したら収拾がつかなくなる。
その場合、仕事の段取りや役割といった仕組みや手順と言ったプロセスを変えて見ろ。見ないしてみろ。
その為には常に追跡可能性を担保しろ。
アメリカの会計基準が追跡可能性を重視し、科学が実証性を重視するのは、指摘しても改善しようのない事を追求しても意味がないという思想に基づいている。
個人攻撃になるだけで時間の無駄。
それよりプロセスと仕組みをチェックしろと。

わからない事、できない事、間違いに気がついいたら、どうしようと考えるべきで。
わからない事やできない事、間違ったことをいつまでも気に病んでも、何の解決にもならない。
落ち込むのが関の山で。
わからないから、できないから、間違ったから、どうなのという事なので。

第七にコミュニケーション能力が低い。
コミュニケーション能力が低いというのは、会話が一方的になり、双方向の関係を作れない事が起因する。
つまりやり取りができない。

組織の働きは双方向で、常に、指示する者と指示された者の両者があって成り立つ。
逆に言えば、指示しただけでは、まだ、半分でしかなく。指示されたことをどのように実行したかを確認しないと、指示した事にはならない。

よく、社長の話を聞きなさいと言われる。その場合、ただ、社長の話を聞けばいいというのではない。
社長の話を聞いて、それを自分のものにして、それを行動、行為に表す。
その行動を社長に確認して、理解度を進化させ、さらに自分の内部に取り込んでいく。
その過程が重要なので。

話を一度聞いて理解したと錯覚し、理解したふりをして、自分勝手に仕事をしたら、はじめから、社長の真意から外れていく。
ではどのようにして、聞いたこと(入力)したことを出力するのか。そこに報告の意義と目的がある。
自分の聞いたことを社長当人、上司、同僚、部下、関係者に報告(出力)することで理解度を高め、自分のものにしていく。

多くの場合この過程が欠けているか、不十分なのである。
指示されたことを他の人に指示する。
あるいは聞いた事、見てきたことを報告する。そうすると自分の実力はあからさまになる。
そして元と結果の差を引き比べて絶えず軌道修正をする。

何が間違いの素かというと、入力した事を自分の内に貯めて出力しない事で、何もわからなくなる、決められなくなるので。
要は、理解するためのプロセスが欠けているので。
何回、話し合ったか、何度報告したかが重要となる。報告は相手を変えて繰り返すことが効果的である。
そう指導された。一回聞いたくらいで分かったと思う方が間違っているとも。
また、内容でなく、プロセスだから修正の仕様がある。
聞いてわからない事は、何度、同じ相手から聞いてもわからないものだ。
何度きってもわからなければ聞く相手を変えろと教えられた。
実務は暗記ではない。

人は皆違うという事が前提となる。