できない辛さ。わからない哀しさ。
どんな人間も、限界がある。
人は万能ではない。
一人ひとりの能力にも差があり。
同じではない。
上には上がある。
でも、他人には負けたくない。
自分が、他人より劣っていると認めるのは辛い事だ。
自分は自分で、いくら羨んでも、優れた人にとって代わる事はできない。
自分は自分なのである。
自分が神に自分に与えられた肉体や能力を受け入れるしかない。
わからない事、出来ない事を認めようとしないから、苦しくなる。辛くなる。
わからない事、出来ない事を隠そうとするから無責任になるのさ。
一度、始めてしまうとやり直せないことがある。
出来もしないのに安請け合いしあがって。
尻拭いさせられるこっちの身にもなってくれ。
言ったらやれよ。
引き受けたら、最後まで責任を持ってやりぬけ。
途中で投げ出すくらいなら、最初から引き受けるなと叱られた。
どんなに頑張ってもできない事や解らない事ばかり。
でも、わからない事を知られると、馬鹿にされるんではないか、怖れたり。
できないと知れたら誰からも相手にされなくのではないかと気を揉んだり。
なんだか自分だけができないと思い込んだり。
劣等感を持ったり。
自虐的になったり。
自分に理解できない事を認めるのは怖い。
未来は混とんとしていて、一寸先は、闇だ。
自分には理解できない事を、他の人が理解できるのは許しがたい。
自分の理解できない事は悪だ。
自分が理解できない事は、悪い事として身を守り。
自分のできない事を遠ざけていたら。
自分以外の人を認められず。
自分以外の人を受け入れられなくなり。
自分以外の人と付き合えない。
自分より優れた人に嫉妬し、敵意すら。
それでは、自分が、わからくなり、自分に囚われる。
自分以外の人と交わるから自分を知る事が出来るので。
自分より若い者や、未熟な者、部下が自分以上にできたり。
わかるのは、許せない。許さない。
許したら、とってかわられるかもしれんない。
外されるかもしれない。
だから、できるふり、わかるふりをして嘘をつく。
それで、ついつい、できない事や解らない事を隠そうとして。
それが、後々、深刻な問題を引き起こす。
できないと認めるのは辛い。
わからないと知られるのは哀しい。
自分にできないこと、わからないことを認めなければ、他人の指導を受けることはできない。
わからないこと認めなければ、学ぶ事はできない。
自分限界を越えられない。
人の言うこと聞くの嫌では、成長はできないし。
限界は超えられない。
第一、一緒に仕事ができない。
チームワークなんて無理。
指導的役割なんてできないよ。
素直に自分の限界を受け入れろ。
自分に負けているにすぎない。
人に教わらなければできないのは、わかるけど。
でも、人に頭を下げて教わるのは嫌だ。
特に、年下の人間や女性、自分より劣っていると思う人に敗けを認めるのは嫌だ。
自分のわからない事、できない事を指摘されると、すぐに、頭に血が昇る。
だから、瞬間湯沸かし器と嘲られるんだ。
人に注意されただけで癇癪を起すのは子供だよ。
人の力には、限界がある。
人の一生に限りある。
人は、全知全能の神ではない。
人は、不老不死にはなれない。
人は神にはなれない。
人は不完全で有限な存在である。
人は、一人ひとり違う。同じ人はいまい。
人に与えられた能力は、一人ひとり差がある。
人の働きは一人ひとり違う。
人の一生は、限界は、一人ひとり違う。
人の価値観は、一人ひとり違う。
自分は一人である。
自分以外の存在にはなれない。
自分に与えられた能力には限界がある。
自分は、他人とは違う。
自分に与えられた能力と、他人に与えられた能力には差がある。
経済や社会は、人には限界がある事。
人は一人では生きられない。助け合わないと生きられない。
人は、一人ひとり、違う事。
自分は、他人と変われない事を前提として成り立っている。
未来の事は、わからない。
わからないから決断をする必要がある。
わかったつもりになれば、何も無理して、決断する必要はない。
決められた事を決められたようにすればいいのである。
わからないから決断する。
決断するために予測をする。
予測をしたからと言っても、未来が不確かな事に変わりはない。
何が起こるかわからないとしても、予測し、予算や予定を立てる事は無意味ではない。
計画は、予測、予定の上に立てられる。
予測の意味、予測の目的を間違ってはいけない。
そうしないと、予定や予算の意味も目的も間違う。
わからないから予測し、計画を立てるので、わかっていたら予測なんて必要ない。
わからないから、決断する。
決めるために予測を立てる。
予測を立てからと言ってわからない事はわからない。
不確かな事を減らすために予測するのである。
いざ決めるとなると怖気づき、尻込みする。
それは、結果がわからないからである。
先の事はわからない。でも、決めなければ、自分たちの計画は実現できない。
決めなければ、結果が出ない。目的は実現できない。目的が失われる。
目的が失われれば、組織は、統制を失い、崩壊する。
危機に際し、組織の統制が失われたら無残である。
だから、腹を括って決断するしかない。
一寸先は闇。
明日の事なんてわからない。
それこそ、一秒先だってわからないない。
だから決断をする。
何もわからないから学ぶので。
できないからこそ努力する。
全知全能でないから面白い。
やる前から、結果がわかっていたら、生き甲斐がない。
わからないからなんだ。
できないからなんだ。
わからない、できない事は、諦める為の言い訳にはならない。
今、わからない事を、明日わかるように。
今、できない事が、明日はできるように。
わかっている事、できる事から決めていく。
一遍に、一回ですべてを決められるわけではない。
少しずつ、階段を上るように手順に決めていく。
一段いちだん昇るようにするから、確実に決断はできる。
先送りすれば、決断は崖から飛び降りるようにしなければできなくなる。
それだけ無謀な事になる。
不確実性が高くなる。
堅実性が失われ博打になる。
ドンドン決めていかないと、決められなくなるぞと叱られた。
決断は一瞬でできる。
決断は一瞬。
迷ったら、決断は鈍る。
考えていたら面は打てない。
悩んでいたら、ボールは打てない。
打つと思ったら竹刀が面を打ていなければ。
バットを振っていなければ、ボールには当たらない。
決断力は、修練で身につける。
決断力は、学校では教えられない。
決断は、気力体力を要する。
だからこそ、若い頃に養わないと、決断力は身につかない。
若い頃に決めるという事を覚える。
決断力は意図しないと身につかない。
長い事、何も決めていないと、何も決められなくなる。
組織人は、限られた範囲て一定に制約、基準に従って、あるいは、指示に従って仕事をしている。
自分が決められる範囲は限定的である。
明確に意識して決めたり、総合的に、大局的に決断する機会は少ない。
そのために何も決めず、前例、予め決められた事に沿って、惰性で動いている時が多い。
長年、惰性的に生きてくると、一定の年齢を過ぎたころから、自分では何も決められなくなる。
それでなくとも、人は、年をとると判断力も決断力も鈍る。
だから後進に道を譲るのである。
決断は、想像以上に重労働である。
自分で決められないから、仕事を丸投げにしたり。
決まったか、決まってないか、曖昧な状態にしておいて、誰かが決めてくれるのを待っているのである。
自分は、どちらに転んでもいいようにしておく。
要は、自分はどこまで行っても決められないから、自分に責任が持てないのである。
だから、自分が決めなければならない事をはぐらかす。
自分が決めなければ、責任から逃れられると思うのである。
決めるという事を覚えないと、自分が保てなくなる。
決められない人間は、逃げ回る。
逃げられなくなると我を忘れて錯乱する。
鬱にも精神疾患にもなる。
呆然自失して立ち竦む。
他人の性にし、隷属し、卑屈になり、言い訳ばかりを考えるようになる。
決断力のない者は、自分では決められないようにしておいて、逃げ出す。
決める前から言い訳を始める。
ひっかきまわすだけ引っ掻き回しておいて最後には、他人の性にして放り出す。
決断力のない者は、自分で決められないから、群れる。
集団の動きに同調させようとする。
決断力のある者がいなくなったら、迷走して自滅する。
本当にやる気のある者は、決められるように立ち回る。
最初からやる気のない者は、無責任な批判をして決められないようにする。
自分で決められない者は、他の人が決めなければならないようにふるまう。
責任逃れな姑息な態度で、その上、自分が責任を負わなくていいような仕掛けをする。
その癖、成果は、自分一人で独占しようとする。
影で人を操り、自分に累が及ばない様に振舞う。
決められない者は、決められる人間を侮る。挑発し、無責任に批判する。
自分が惨めになるから。
その癖、決められる者を頼る。
そして、周囲を欺いて自分が決めてるように見せかける。
力のある者を妬み、足を掬う。
自分が劣っている事を周囲に知られたくないから。
悪は、そこから生まれる。汚い。
弱者は、強者を狡猾に欺き、利用する。
決断には、勇気と度胸がいる。
力の伴わない者、決められない者は、馬鹿にされまいと虚勢をはる。
虚勢を張り、空威張りをして隠そうとし、誤魔化そうとする。
わからないなら、わからないといえ。
できないなら、できないと潔く認める。
できない人間の空威張りは、傍から見れば喜劇だが。
部下からすると悲劇。
部下は、評論を求めているわけではない。
決めてほしいだけだ。
自分が、わからないのは私(わたくし)個人の恥。
知ってかぶりをして招いた災いは、全体に及ぶ。
恥は恥。私情に過ぎない。
仕事が停滞し、或いは、とん挫するのは公の大事。
結果、苦しむのも、責任を負わされるのも、弱い立場の人間。
聞くは一時の恥。聞かぬは一生の恥ってね。
死ぬほど他人(ひと)に頭を下げるのは嫌だと言うような人いるけどね。
他人に教えを乞う時は、自分から頭を下げないと。
他人に頭を下げるのを嫌がっていたら、成長は止まるよ。
潔く自分の限界を受け入れられないのは、度胸がない証拠。
よく思われたいと風評を気にするのは、未練。
臆病者は、裸になる事が出来ない。
鎧で身を固め、殻に閉籠る。
人を避け、逃げ回る。
自分が他人より劣っていると認められない。
特に、女性や年下、未熟な者を女だから、若いから、未熟だからと蔑んでいたら、自分の為にならない。
一度侮ると、その人の本質が見えなくなる。
後で大恥をかき、後悔する事になる。
人は見掛けによらぬものである。
自分より優れている人を妬む。
そんな狭い了簡では、自分を惨めにし、卑しめ、貶めるだけ。
自分に負けているだけ。
自分より劣っている者がいようと、優れた者がいようと、自分は自分。
人には誰にも、長所欠点があり。
全てにおいて劣っている人も、全てにおいて優れている人もいない。
勝ってどうする、敗けてどうした。
人は、それでなくても老い衰えていく。
昨日、自分が勝てた事も、明日は負ける事も増えてくる。
所詮、人は老いには勝てない。
先いく者には、追いつかず。
後から来るものには追い越され。
人は自分の限界を悟った時、永遠が見えてくる。
それを諦観という。
諦観とは、単に諦める事を意味するわけではない。
自分の限界を受け容れる事である。
虚勢なんて張っていたら仕事には、ならない。
力ある者は素になる。
素になれなければ、人はついてこない。
人を束ねられない。
事を成就したければ、なりふりなんて構ていられない。
恥はかいて知るもの。
恥をかくことを恐れていたら、本当の恥知らずになる。
恥をかいて、恥を知れ。
決めてほしければ、決められるようにしてこいと、よく言われたものさ。
相手の性格や癖に合わせて、段取ったり準備するのは、補佐役の腕の見せ所。
決められないようにしておいて、裏で陰口を聞くのは、卑怯。
人として恥ずべき事。
仕上げをするのがトップの仕事で、前処理、下拵え、お膳立て、根回しは、補佐役の仕事。
料理をするのは料理人の仕事、客に生肉出して調理をさせる気か。
挙句、「腹減った、飯はまだか。」と客に要求する料理人は本当に情けない。
つもり、つもりは、誤魔化しだよ。
やってるつもり。
わかっているつもり。
やってるつもりでも、実際に、やてなければ嘘になる。
決めたつもりで、何も決めてなければ、始まらない。
わかったつもりで、何もわかっていなければ、知識は、まやかしになる。
わかるにも色々ある。
言われているのがわかった。
言っている意味がわかった。
自分のやるべきことがわかる。
やってみて、自分の理解が正しかったことがわかる。
問題がわかった。
原因がわかった。
解決策がわかった。
どこから手を付けたらいいかわかった。
組織、集団では、自分がわかっただけでは、わかった事にならない。
関係者全員がわかっていなければわかった事にはならない。
監督は、監督として何をすべきか。投手は投手としてない何をすべきか。
打者は打者として何をすべきか。審判は審判として何をすべきか。
観客は観客としてどうすべきかが、わかっていてはじめてわかったと言える。
報告は、報告を求めるものが、どのような意図で、何を聞きたいかがわかって、はじめて、わかったと言える。
わかったと聞かれて、わかってるよなんて言い返す者は、わかっていない。
わかっている者は、どうしたらいいか聞いてくる。
「わかっています。」と言い返す者は、わからないから、単に拒絶してるだけ。
何がわかったかもわからずに、わかったと思いこみ、わかった気になるのが、わかったつもり。
わかったつもりになって心を閉ざす。
わかったつもりになって行動しない者が一人でもいると、組織は、その個所から機能不全に陥る。
わかったつもり、やったつもりでいると、肝心な時に、何も、決められなくなる。
本当に、決断が求められるのは、何もわからなくなった時。
先が読めなくなった時。
限界にぶつかった時。
うまくいかない時こそ、決断が求められるので。
万事順調な時は、決断なんて求められない。
決断力は、涵養するもので、そのために、修行した。
昔の教育は、座学と修行を両立するよう努めたが。
今の学校は、名目を重んじ実を軽んじる。
座学ばかりを教育と称して、修行を認めない。
その方が、教育者は人格を問われないから。
今は、教育者は、労働者であり、師でも、先生でもない。
恩師、尊師など、今は死語。
以前の、リーダーは、指導者だったのである。
つまりは、教育者を兼ねていた。
いま一度言う。
決断力は、修得する事。
昔は、教育と言えば、決断力を養う事だった。
それが、士道、武士道。
大人にするための教育。
自分で自分の事を決められない者は大人とは看做(みな)されない。