たった三秒ですよ。
たった三秒。
たった三秒で、何もかも違ってしまう。
たった三秒の事で、追及される。
たった三秒の差で、運命が変わってしまう。
起きるまで、何事もなく、何でもない日常生活だったのが、たった一発の銃声で一瞬にして、一変してしまう。これが、歴史だし、人生なのです。
現実なのです。
今の日本人は、昨日と同じように同じように明日が来ると信じ切っている。
自分が日一日、年をとっている事も忘れて。
今日できる事は、明日もできると思い込んでいる。
時の流れの非情さを見て見てみぬふりをして。
しかし、現実は冷厳たるものです。
2022年7月8日。
安倍晋三元総理が凶弾に倒れた。
一発目の発砲から、致命傷となった二発目の発砲まで、たった三秒。
しかし、警護から見ると、三秒もあったと。
初動というが、現場を預かる責任者からするとなんと過酷な事と。
自分も、何度もそういう局面に遭遇していますが。
いかに、冷静、適切な判断、行動をするのが難しいか、身をもって体験しています。
後で批判するのは簡単だ。
しかし、当事者にしてみれば、最初は何が起きたのかわからない。
事態を理解するまでに、無情に時は過ぎていく。
無我夢中で、何が、何だか。
何をしてるのかわからない。
気がつくと、一時間、二時間なんて、あっと、いう間に立ってしまう。
その場で、冷静客観的に判断するには、情報が少なすぎる。
何が正しくて、何が間違っているかなんて、考える時間なんて与えられない。
咄嗟の判断が求められる。
残されるのは、よくても、悪くても、結果だけ。
だからこそ、日ごろの心構え、鍛錬、覚悟が大切なのです。
後で、冷静適切だと褒められても、実感なんてわかないもので。
余程、時間がたたないと、冷静に反省なんてできない。
特に、当事者は、早く忘れたい。
できれば、なかった事にしたい。
運命を変えられたのは、安倍元総理だけではない。
警備に関わった人達の運命も、人生も。
一瞬で変わったのである。
我々にとって他人事ではない。
常に、人は当事者なのである。
思い返せば、いろいろな危機を乗り越えてきてはいる。
しかし、冷静な判断できたかと自らの心に問えば。
決めなければならなかったから、決めたと言うだけ。
思い出しても身の毛がよだつ。
恥ずかしい事ばかり。
上手くいったとしても、幸運に恵まれたとしか。
後の事を考えると、なるべくなら決断したくない。
それが、本音です。
しかし、決断しなければ、何も始まらない。
決断は、一瞬でできるのです。
決断は、理性的な行為ではなく。感情的な行為です。
冷静的に、準備、判断し。感情をもって決断する。
だから、決断には、力が入る。
決断力は、日ごろの鍛錬、修行が必要。
ところが、今の日本人は、決断は、冷静に、客観的、機械的、論理的にできると思い込んでいる。
その結果、決められない人間が増えている。
いざという時に何も決めれらない。
決断の本質を、今の日本人は、理解しようともしない。
そして、決断までも、機械に任せようとしている。
何が、問題なのか。
一つ、異常を察知できなかた。事前の異常行動に、誰も気がついていない。
一つ、異常に気がついても、即、行動に移せなかった。反応が鈍い。
一つ、日ごろの、訓練が生かせなかった。
ターゲットとされた要人が保護されていない。
一つ、事態に対して、チームワークが出来なかった。役割分担が徹底されていない。
自分の役割を理解していない。
犯人を捕らえるのに気を取られて、迎撃体制がとられていない。
群がっている。
一つ、互いの連携がとられていない。
一つ、現場指揮官、指揮命令が判然としていない。責任の所在が明らかでない。
一つ、ルールが守られていない。統制のとれた行動がとられいない。
一つ、死角を作った。死角を、防げなかった。前方ばかり、同じ方向ばかりに注目している。
一つ、読みが甘い。
一つ、事前の準備が不十分。
一つ、最悪の事態を想定して、緊急体制を敷いておく。
銃撃を受けた場合を想定し、病院や救急車を事前に確保しておく。
でも、親父たちに言わせれば、それ以前の問題なんでしょうね。
与えられた時間はたった三秒なんですよ。
その場に及んで、まず声が出ない。
身体が動かない。
硬直し、頭が真っ白になってしまうのですよ。
冷静な判断なんて。
訓練を受けたはずの警察官だって。
でも親父たちにはできた。
親父たちは、戦争を経験しているのです。
親父たちにとっては、生きるか死ぬかの問題。
声が出なければ、部隊が全滅する事も、戦友の命を真持こともできない。
現実なんですよ。
夢の中の話ではない。
照れたり恥ずかしがっている場合ではない。
考えたり、迷ったり、躊躇している暇はない。
たった三秒ですべては決する。
言い訳は通用しない。
指揮・号令は、大きな声を出し、大きな動作で、みんなに自分を曝さなければならない。
スポーツの審判と同じ。
瞬時に判断し、言い切らなければならない。
曖昧な態度は許されない。
黒か白かをはっきりさせなければならない。
ただでさえ声すら出ないと言うのに、今の学校では、組織人としての訓練がされてない。
組織、イコール、軍隊という事で。
学校では、指示・号令の出し方受け方を教えるどころか、指示や号令は、悪だと教える。
始礼も終礼もなくしてしまった。
礼を失えば人間関係は成り立たなくなる。
指示も礼節も悪だと教える。
そんな国ないですよ。
人は一人では生きられないのですから。
強制は自由と反するなんて、自由の意味も解らないで。
自由というのは自分と世間とのかかわり方の問題で。
強制のない社会なんてないのですから。
何も起こらなければ、何でもない事なのです。
何でもなければ、決断したら、余計な事をと、謗られる。
杞憂ですよ。
今まで何でもなかったんですからと。
計画性があるか、ないか問うこと自体、愚かである。
何か月も前に入念に準備しなければ、実行不可能なのである。
一日、二日で決断できるような衝動行動ではない。
ずっと以前い決断していなければ。
いつ、なぜ、決断したのか。
たんなる異常者の行動ではない。
なるべくなら、何も決めたくない。
それが本音ですよ。
本来、男は、決断しなければ子はなせない。
要請できなかったからなんて言い訳に過ぎない。
だから、男子たるもの自制しろ。
自制心を覚えろと。
それが、禁欲が修養の一つとされた。
今は、欲望の赴くまま、やりたい放題。
それが男だと。
違う。
男なら、自制する。
人は、決断する。
人生は決断の連続である。
決断は連鎖する。
何も決めなければ、責任はないと言うわけにはいかない。
自分の事は自分で決めなければならない。
自分で決められなければ、自分でなくなる。
自分の主体が失われ、人に隷属するしかない。
意識していようがいまいが、人は決めなければならない。
決められなくなったら人はお終いである。
少なくとも、人としては、お終いである。
一日の内にも何度も決断しなければならない。
食事の時も、起きるのだって、エイヤーと決断しなければならない。
問題は、決められない事なのである。
決められなくなる事である。
自分の決めた事に責任が持てなくなる事である。
今の日本人の教育は、決断をしてはならないと教育する。
学校では、問題意識など持たず、ただひたすらに先生のいう事聞く事を教えられ。
戦後の日本人は、守るという事を教えれらていない。
何から、自分をどうやって守るのか。
家族を、どうやって守るのか。
仲間や友をどうやって守るのか。
会社をどうやって守るのか。
国をどうやって守るのか。
人類、平和を守るのか。
守る事を教えられずに、守られる事ばかりをきたしるように仕向けられてきた。
だから、誰も守ってくれない。
誰も守って食らないと恨みばかりを言う。
自分を自分で守る。
自分たちの国は、自分たちで守る。
この当然な事もわかっていない。
事が起きてからでは遅い。
事が起きる前に決まる。
決断は行為に先立ってする事。
起きてから決断しても手遅れである。
結果が出てないから決めるので。
どんな決断にも勇猛心が必要。
だから平常心が求められる。
それを、日本人はわかっていない。
考えてから決めなさい。
考えて決めなさいと教える。
考えたら決められない。
だから、決断は直観を鍛えるしか身につかないのである。
抜刀する気合で決断する。
一度、鞘から抜かれた、後は、行動あるのみ。
覚悟は、抜刀した後にするものではない。
抜刀する以前にできていなければならない。
それが、武士道である。