組織には、全体がある。少なくとも全体を意識したら。
これはシステムの構造上、必然的な事ですが。
全体を維持、防衛しようとする”意識”が働きます。
つまり、全体の統一性、アイデンティティを維持しようとする力が働き始めます。
これは、”意識”の目覚めです。
このような”意識”は全体を整合性の取れた行動をとろうとする力でこのような統一した行動は主体性を意味します。

”意識”が自己を形成します。

しかし、”自己”は自己のアイデンティティ、同一性を保つためには、意識しようとしまいと、”自己”を唯一絶対な存在と規定せざるえない。
自己が唯一絶対でないと全体は分裂するからで、一度分裂すると全体は解体へと向かうからで。

しかし、これだけでは、分別は生じない。
分別は自他の関係の上で生じるから。
つまり、自分以外、自己自体が自己を意識するという事、自己以外、他の存在を同時に認識したということ意味する。
このような他、つまり、自分の外の世界、存在も唯一絶対であることを前提としなければ自己の存在は成り立たない。
このような他の存在や世界に統一性を保っている”働き”を神とする。
他を意識した時、分別が生じる。 分別は、自他との関係、認識上で生じる。
自己以外の世界も唯一絶対でなければならない。 絶対という事は無分別である。
そこで、他を認識した瞬間、自他の認識上の絶対性は破壊され、失われる。
以後、意識される現象や物はすべて相対的に認識される。
つまり、意識される物や現象は総て不完全で未完成な物や現象と見られる。

これが大前提。

つまり、総ての始まりは無分別。
自他の関係を意識したところから分別は生じる。
分別の目的は、自己保存、自己防衛にある。
全体としての自己を維持するためには、自己を自己の力で制御しなければならない。
つまり自制心である。
自分の力で全体と統一性の取れた状態を維持しようとする意識によって自制心は生じる。
それが主体性である。 自制心は他を意識する事から生じる。
なぜなら、他を意識する事で、他と自分を分別し、自己の全体と自の力で統御しようとする働きが自制心だからである。
重要な事は自は有限で神は無限だという事で、だから人は、神を超えられない。
確かに人は意識の上で無限になるかもしれない。
しかし、神と言ったとなれば分別は失われ、意識も喪失する。
つまり虚しくなる。
それを空という。
空となれば、人の存在意義は失われ、消滅する。
だから、意識的な存在と維持したければ、神を恐れる必要がある。
つまり、自己の限界を自覚する事によって自己は制御できる。
神を超えようとか、神を否定したり、神になろうなどとしたら、自制心は失われる。
人も神を超えられない。
限界を知るから、自己を制御できる。
限界を知らなければ自分を抑制しようする力が働かないからだ。

自己を制御しようとする枠組みを倫理というのです。
この点を正しく理解する必要がある。
人に自己を制御する枠組みを与えられるのは、人ではない神のみです。

では、倫理とは何か。

倫理の枠組みはどのようにして形成されるのか。

それは、科学的な事です。
全体の統一性を保とうとすると、何らかの規則性を持たせなければならなくなる。
規則性は、法則に基づかなければなりません。
それは物的世界では物理学的法則に集約されています。
そして物理的法則は、万国共通であり、宗教も、人種も、思想信条も関わりありません。
金融の世界も同じで”円””ドル””元”と通貨が違っても人との全体の上で統制されてます。
ただ、物理的現象も、「お金」も、外の世界の事で内の世界の事ではない。
だから、自制が効かないのである。

内面の世界の規範もこれからは、物理法則のようになっていかなければいけない。
つまり、自分越えた全体の中で、見だしていかなければならない。
だから、神なのです。

これからの行動規範とか、価値基準というのは、、一種の関数になると思います。
アルゴリズムでありプロセス。

”汝、盗むなかれ”ではなく、状況、環境に合わせて、答えを密引き出せるようにする。
その為の法則、手続き、手順ですね。 それで、私は、易経が参考になると。
前提条件と変数、定数、そして、数式。何を独立変数とし、何を従属変数とするか。
関数を構成する要素として何を設定するか。
代表数は、何を想定するか。
偏差値や確率をどう設定するか 出せるのは、絶対解ではなく、確率的最適解にすぎない。
そして、位置と働きと関係、ベクトル、テンソルがカギを握っている。

これからの倫理はかつて、物理学がたどったように、仮説を立てて、実行して、検証し法則化していく事ですけれど、じゃ実験できるかとそこで幸いなことに実験データの宝庫が歴史ですね。
歴史こそ、データの塊ですね。歴史から一定の法則を導き出す。
それが集約されたのが法です。
歴史から学ぶのはいいが、歴史を自分に都合のいいように曲解したり。
偏った考えによって極端考えや、狂信者になる事。
一番危険なのは信仰心を失い、独善に堕ちる事、これは”滅びの道”まっしぐらですからね。

いずれにしても、原点、最初が肝心という事ですよ。
初期設定ですね。初期設定は単純で疑る余地のない確固たることに置く。
それが自己と存在の唯一絶対性にあるというのが僕の哲学で、それ以外に求めない。

要するに、”俺いるよね。””お前いるよね。””これあるよね。”という事を確認するだけ。
なんでもない事ですよ。
僕は、これを了解可能性と言っているんですけれど。
これが原点で、ここから始めればいいので、 それ以上でも、それ以下でもない。
一見当たり前な事ですが、我々、人間は死ぬとこれができなくなる。
仮に死んだあとこちらから相手が見えても、相手からこちらが見えなければ、了解可能性はとれない。

しかも、質が悪い事に、人間は、自他の分別ができる前に存在している。
自他の分別がつくのはずっと後、動物は、死ぬまで自他の分別がないという。
でも確かに存在しているのですよ、なぜなら、こうして、私が呼びかければ、返事をするのですから(笑)
そして、存在した以上、否定はできなくなる。
貴方も創造主が生み出した創造物なのですから。
そして、この俺はいるよね。お前もいるねと相互に確認する事。そこから全てが始まるので。
それ以上確かの事もないし、それ以外確かなものはなくてもいい。それが原点。
前提とは、それだけですね。

私が質問して、あなたが答える。
これが、基本的関係だと思うのです。
そしてこの関係こそ、認識の作用反作用を意味する。

この関係は、私とあなたの存在を前提としないと成り立たない。これが第一点です。
そして、質問に応えていると方向性が生まれる。そしてその方向の源は中心に向かう、中心を持たないと統一性を保てないから。
そして、その中心は唯一で絶対でなければならない。そして、了解可能で、証明できなければならない。
そうなると、あり、ありて、ある。私の存在とあなたの存在で、存在証明は質問して答えるという関係によってなされている。
同じように相手の存在を認めないと質問して答えると言う事もできなのだから。
仮にそれを否定しても、否定という行為そのもものが存在を前提としていないと成り立たない。
自分の言いたいことは、そういう事なのです。

在り在りて在る。
この点だけでいいと必然的に方向が定まり収斂していく。
アンケートもその背後にある真実を知る事が目的で後は手段に過ぎない、そこを間違うと手段が目的化してしまう。