私は、国を愛するのも、信じるのも、忠誠を誓うのも国民の権利だと思うのですね。
その権利を戦後、日本人は、奪われてきた。
国を愛するというのは、日本人にとって、一神教徒が神を信じるというのに通じる。
だから、国に忠誠を誓う権利を奪われるのは、信仰心を否定されたも同然。
それで、日本人は心のよりどころ、芯をなくしてしまい。
それに代わって唯物論。
日本人は、わかっていませんけど。
共産主義だって、資本主義だって唯物的であることに変わりない。
だから、ものの哀れを失い。
日本文学は美学がなくなり、からからに乾いて醜悪なものに。
要は、エロ・グロ・ナンセンスですね。
情けないです。悲しいです。
一神教徒は何も怖れていない。
予言通り自分達だけが生き残るつもりでいるから。
でも美しくない。美しくない。
侘び寂がない。ただ、荒廃した風景しかない。
原爆を落とされた広島の風景のように。
愛し合うとか、睦会うとか、信じあうとか、義理とか人情とか。
友情も、恩も、意気地もなく。
誇りも、気概もなく。
志なんて。
性欲が愛だと。
禁欲は愚か。
義理も人情も駄目。
男の矜持なんて。
これでは、死んでも死にきれない。
男心は男でなけりゃなんてね。
夢のまた夢。
鵺というか、クラゲのように、正体もなく、骨もない。
文化が崩壊した。
司馬遼太郎が、日本人は、バブルの時に土地を弄んだ。
山本七平も、軍事的敗北より、文化的敗北は、取り返しがつかないと。
独立国としての気概がこの国には感じられない。
それは、やっぱり、戦争に敗けて、この国を愛する権利を奪われたからで。
そんな気がする。
なぜ、愛するのかって。
そんな事はわからないではないですか。
この国に生まれて。
気がついたら、この国の物、料理を食べて育って。
この国の言葉を話して。
理屈なんてないですよ。
この国には、友達がたくさんいて。
選択肢なんてないですよ。
たくさん、思い出や記憶があって。
そう、この国の匂。
この国の空気、風が好きで。
そんなたわいのない事。
母や、父の声。
親戚がいて。
だから、この国を愛するのは、権利なのだと。
そう言いたいのです。
思想だの、哲学、主義主張なんて、その後の事ですよ。
右だとか、左とかは、あんまり関係ない。
理屈が先で国を愛しているわけではない。
人を理屈で好きになるわけではないように。
なぜ俺はここにいるのかと問うたところで意味がない。
好きなものは好きなのだ。
その時の政権や権力者を愛せよと言うのではない。
その時の政権や権力者を愛する事と国を愛する事は違う。
政権や権力者に、従うにせよ、抗うにせよ、根本は国を愛するが故だ。
だから、国を愛するのは、権利だと言うのである。
国を愛するが故に、従いもし、抗いもする。
今、ウクライナの国民も、ロシアの国民も愛国心が問われているのだ。
従うにせよ、抗うにせよ。
この世界に何十億の人間がいたって、そんなの関係ない。
現実に生きてるうちにそんなに大勢の人と付き合えるわけではない。
人間なんて狭い世界の中で生きている。
それは、プーチン大統領だって、習近平主席だって、バイデン大統領だって同じ。
大切なのは、共に働き、運命を共有している仲間だ。
家族であり、愛する人であり、友であり、職場の仲間であり、向こう三軒両隣の隣人、郷土の人。
だから自分を愛する事は、家族を愛し、夫や妻を愛し、親を愛し、子を愛し、友を愛し、師を敬い、職場を愛し、隣人を愛し、郷土を愛し、国を愛する事さ。
なぜなら、気がついたら、なんだかんだ言っても、自分はこの国にいて。
一緒に生活し、泣いたり、笑ったりしてさ、そこに自分の人生があるから。
それが、目に見えない縁であり、絆なんだ。
だから、戦うしかないじゃないか。
目の前にいる人達のために。
この平凡で、何でもない日常生活を奪おうとする敵とは、戦うしかないのだ。
一緒に生きてきた人々を、平凡だけど、かけがいのない日常生活を取り戻すために。
戦うしかない。
だから、国を愛するのは、権利なのです。