経済の働きを理解するためには、「お金」の効用を実利的側面から考える必要がある。
貨幣の働きを機能という観点からではなく、効用という観点から見直す必要がある。
「お金」がどのような働き(メカニズミム)によって経済の仕組みを動かしているのかを明らかにしないと、「お金」をどのように扱っていいかもわからない。

経済の最終目的は、人を生かす事にある。
現代の経済に最大の問題は、人中心でなく、物や「お金」中心の経済だという事である。
人間性が無視されている。経済の基本に人の一生、人生がない。
経済は、本来、人の一生を基礎にしていなければならない。
物や「お金」中心だと、人を物扱いしかできない。
人間を人間扱いできなければ経済は、最終目的を達成できない。

要は、経済の仕組みの目的は、全ての人の生活を成り立たせる事であり。
物や「お金」は、そのための手段、道具に過ぎない。
人々の生活は消費に現れる。消費の型が、経済の基礎でなければならない。
人は生きていくためには、日々一定の量の資源を消費しなければならない。
特に食料は欠かす事が出来ない。
また、衣服や住居の様に一定期間わたって必要とされる物もある。
この様に、消費は固定的、確定的である。
それに対して、生産財の中には、生鮮食料の様に、生産が不安定でかつ、波のある財がある。
生産よる波を整え、平準化する事が経済の仕組みに求められる。
先ず、日々の生活や人の一生の型を明らかにし、その時どきに何が求められるか。
人生、生病老死、冠婚葬祭を考える事から経済学は、始まる。

経済は、最終的に、消費に現れ、費用によって実現する。
それなのに、消費や費用を軽視し。酷い場合、費用は、邪魔者扱いである。
しかし、費用は分配の要であり、費用こそ経済を成り立たせているとすらいえる。
費用は、無意味に削減すると、分配に悪影響を与える。
費用の、核は、所得なのである。費用を削減すれば、自ずと総所得も減少する。

経済を成り立たせてる要素の一つが無駄である。
一見、無駄に見えるところにこそ、経済の本質が隠されている事がある。

経済の目的は、実生活を成り立たせる事で、「お金」は、裏方、補助的手段である。
「お金」は、目的にはならない。

戦争が起こる一番の理由は、生活が成り立たなくなる恐れである。
武装放棄すれば、戦争はなくなるというのは幻想であり、却って、侵略を招くだけである。
戦争をなくしたければ、戦争という手段でなく、問題を解決できるようにする事である。
その為には、自国だけでなく、相手国の生活も成り立つようにする事である。

「お金」は、消費されない。消費されずに、常に再利用される。
なぜなら、「お金」は、消費されない事で、「お金」の価値を交換価値に特化する事を可能とする。
「お金」は、消費されないのに対して、財は消費される事を目的とし、前提とされる。

財(モノやサービス、権利)は、消費される事で経済的効用を発揮する。
故に、財は、基本的に、循環しない。時間がくれば、一方的に、消費される。
それに対し、「お金」の名目的価値は、腐敗も、損傷も、毀損も、破損も、壊れも、消滅も、焼失も、蒸発も、溶けたりも、劣化も、陳腐化もしない。

「お金」は、負の空間を構成する。「お金」は、名目的価値を形成し、負の空間を形成する。
実は正(+)、「お金」は、負(-)。
実は、物的空間にある。時間の経過に従って実質価値と名目価値が乖離する。
実質価値と名目的価値の時間的乖離が経済現象の裏にはある。

「お金」は、分配のための手段、道具である。
「お金」の役割を果たすための働きは、交換価値である。
「お金」の属性は、分配と交換を前提として形成された。

「お金」が財を生産したり、加工したり、車を運転するというわけではない。
財の生産や物を運ぶといった実際の仕事をするのは、機械、装置といった物や人である。
「お金」の働きは、原材料を購入したり、人を雇う時の支出である。

経済の仕組みは、人と物を関連づけて、生産と分配、消費を実現する事です。
人と物と関連付ける媒体として「お金」は、機能している。

分配は、支払い手段である「お金」を予め、配分し、配分された「お金」を使って、市場から自分が必要とする財を獲得する事で成立する。
問題は、自分で働いて所得を稼げない人口がいるという事、即ち、自分も力で「お金」を獲得できない層が少なからず存在する事である。

経済の仕組みは、生産、分配、消費の三つの局面から成り立っている。
生活に必要な財を生産し、必要としている人に分配し消費する。
この循環を仲介するのが「お金」の役割である。

総生産=総所得(分配)=総支出が成り立つ。これを三面等価という。
注意するのは、三面等価が成り立つのは「お金」の上である。
物の世界では、即ち、物的生産と物的消費は、非対称であり、それが、実体的世界を形成している。
名目的価値と実質的価値に差が生じるのは、「お金」の名目的価値は、腐ったり、壊れたりしないのに対し、物の実質的価値は、腐ったり、劣化したり、消滅したりするからである。

経済の仕組みを構成する要素は、生産主体と、分配主体、市場、そして、消費主体(主として家計)である。「お金」は、分配の過程を通じて生産と消費を結び付ける。

経済を安定させるためには、生産と所得と支出が均衡するように調節する。

一般に、生産主体と分配主体を一体として、生産と「お金」の分配をする。
「お金」は、支払いを準備する。

現代経済の一番の誤謬は、市場だけで分配をしているという錯覚である。
分配は、分配主体によって、組織的に支払い準備である「お金」を所得として働きに応じて分配をし、分配された所得を使って生活に必要な財を市場から購入する事で完了する。
つまり、「お金」の配分と、市場から生活に必要な財の購入という二段階で分配は成り立っている。

この経済の仕組みや経済主体を動かしているのが「お金」である。
「お金」制度は、極めて、シンプルな制度であり。
シンプルだから、高度な処理も可能としている。

問題なのは、自分で働いて「お金」を稼ぐ事のできる人口と財を消費する人口が一致していない。
つまり、総ての人が財を必要とするのに、自分で働いて財を生産し、「お金」を稼げる人は限られているのである。この溝をどのように解消するか、それ経済の一番の問題なのに、共産主義も資本主義もこの点に気がついていない。あるいは、故意に無視している。

人口には、生産労働人口と、非生産労働がある。
非生産労働というのは、自分で働いて所得を獲得できない人口のことを指す。
生産労働は、現在の制度では、年齢と深く関わっている。
生産年齢人口が、現在の経済では重要な要素となる。

生産と消費は経済の両輪であり、どちらかに偏っても、経済は成り立たなくなる。
要するに、生産と消費を切り離したら、経済は制御できなくなる。
だからこそ、中間に「お金」による分配の仕組みを介在させるのである。

消費には、公的な消費と私的な消費がある。
消費経済は、公私の区分と生活設計が基礎となる。
公的な消費は、主として、政府機関等の公的機関による消費で公的消費は、公的労働が伴うので、所得を生み出す。
公的消費には、教育、国防、治安、防災、インフラ開発、行政などがある。

労働には、消費労働と、生産労働があり。
消費労働の多くは家内労働と公的労働である。
家内労働は、非所得労働である。つまり、家内労働に従事する者は、単独では所得を得られない。
家内労働を、所得労働に転換するために、家内労働、家事の外注化が進んでいる。
ただ、家内労働、消費労働を正しく理解しておかないと、家内労働の外注化は、消費労働の崩壊を招きかねない。家事の正統的評価がされず、出産、育児から逃れられない女性の負担が大きくなる傾向がある。
それは、少子高齢化や。男女差別の要因ともなる。
経済には、換金できない部分があるのが前提となる事を忘れてはならない。
そして、換金できるか、できないかは、価値観、哲学に基づいっている。
故に、経済体制の根底、基礎には、哲学がなければならない。

経済主体を動かすのは、「お金」の出入り、即ち、収入と支出である。
収支によって「お金」の流れは作られる。
経済の仕組みや経済主体は、「お金」の入りと出。IN・OUT。I・O。
すなわち、二進法で、システムと相性がいい。

入りと出で重要なのは、「お金」は、経済組織の動力だという点である。
言い換えると、現在の経済は、「お金」によって動く仕組みだと言える。
「お金」が循環する事で経済の仕組みは動いている。
「お金」は、使われる事によって効用を発揮する。
「お金」は、絶え間なく、満遍なく、社会の隅々まで循環していなければならない。
「お金」が、流れなくなると、社会は崩壊する。
また、「お金」が流れない場所が生じるとその場所は、経済的に成り立たなくなる。

「お金」の入と出を生み出すのは、「お金」の過不足である。
過不足が重要なは、不足するから不足分を補おうとして働くからで。

一つの経済主体の「お金」の過不足が、他の経済主体の「お金」の過不足と連鎖する事で「お金」は、流れる。一つの、市場には、「お金」に不足する経済主体と余剰主体は、混在する。
総てが、「お金」に不足しているわけでもなく、余剰に「お金」を保有しているわけでもない。
常に、「お金」に不足する主体と、余剰に「お金」を持つ主体が存在する。
総ての経済主体の「お金」の過不足の総和は、ゼロに均衡する。
経済主体は、一定の周期で「お金」の過不足を交互に繰り返す。
その周期が、経済に一定の変動を引き起こす。

働きと所得を切り離すと、生産と消費が結びつかなくなる。
分配を、均質均等にすると、生産と消費の結びつきがつかなくなり、生産と消費の相互牽制が効かなくなるのである。

「お金」は、生活をするための必需品でもある。
生活に必要な資源を手に入れるための手段・道具だという事である。
今の世界は「お金」がないと、生活に必要な資源を手に入れられない。
つまり、生活ができない。生きていけない。

「お金」の流れが生み出す物流によって経済の仕組みは動いている。

「お金」は、所得として、働きに応じ支払い準備として事前に分配される。
消費者は、市場で「お金」と交換する事で生活に必要な資源を手に入れる。
「お金」は、所有する事ができる。所有権が生じる。
「お金」は、所有者を変更する、移転する事で移動する。

市場では、「お金」は、売買によって効用を発揮する。
買いは、「お金」の効用、交換価値を発揚する。
売りとは、生産の促し、支払いを準備する。
借りは、支払いを準備し、債務と金利を生成する。
貸しも、支払いを準備し、債権と金利を生成する。

貸借は、「お金」を借りる側に債務が、貸す側に債権が生じる。

貸し手と借り手、売り手と買い手は、鏡像関係、対称関係にある。

生産手段を構築するための手段でもある。
「お金」は、資本を形成する。

「お金」は、貨幣価値を形成することによって効用を発揮する。
貨幣価値は、交換価値である。
貨幣価値は、数量と貨幣単位を掛け合わせる事によって形成される。
故に、貨幣価値は、数量と貨幣単位に分解される。

以上の事から「お金」の実際的性格を箇条書きにすると次のようになる。

一つ、「お金」は、値である。
一つ、「お金」は、名目的存在である。「お金」は、名目的価値を形成する。
一つ、「お金」の、名目価値は劣化しない。
一つ、「お金」は、負の働きがある。
一つ、「お金」は、媒体であり、アダプターのような働きをする。
一つ、「お金」は、価値を一元化し、演算を可能とする。
一つ、「お金」は、単位である。
一つ、「お金」は、基準、尺度。「お金」は、相対的尺度である。
一つ、「お金」は、交換価値を象徴している。
一つ、「お金」は、分けて使う事が出来る。
一つ、「お金」は、流動的である。すなわち、移動が可能である。
一つ、「お金」は、情報である。
一つ、「お金」は、情報を匿名化する。
一つ、「お金」は、交換価値を保存する。
一つ、「お金」は、分配の手段である。
一つ、「お金」は、支払い準備である。
一つ、「お金」は、時間価値を生む。
一つ、「お金」は、消費されづ、使いまわされる。再利用される。
一つ、「お金」は、匿名性がある。
一つ、時間価値は、幾何級数的、複利的に変化する。
一つ、「お金」は、両替できる。売買できる。

「お金」は、値である。
「お金」で思い浮かべるのは、お札とか硬貨とか、物としての「お金」だけれど、「お金」の本性は値であって、「お金」そのものに実体があるわけではない。
お札とか硬貨は、便宜的に、お札や硬貨の物としての属性を利用して「お金」の働きを表しているので、お札や硬貨が使用価値を有しているわけではない。
「お金」は、名目的存在であり、「お金」そのものに実体はない。
貨幣価値の実体は、物や用益、権利にあり。物や用益、権利が正の働き(使用価値)を持っているのに対し、「お金」は、負の働きがある。
この負の働きが、「お金」の流れの逆方向の物や用益、権利の流れを生む。

「お金」は、負の空間を構成する。
時間の経過に従って実質価値と名目価値が乖離する。

「お金」の、本性は、値である。
表象貨幣である現在の「お金」は、物としての属性を本来、持たないが、お札や硬貨のように物に「お金」の働きを持たせている場合に限り、物としての属性、破壊、紛失、所持などが付与されている。
「お金」は、物としての属性をなくす事によって「お金」の無形化、非物質か、信号化、記号化が可能なのである。

自然科学で用いられる数学の体系と経済に用いられる数学の体系は違う。
「お金」は、自然数であり、ベクトルであり、離散数である。また、演算は、あまり算、計算の基準は残高主義である。残高主義とは、残高を基礎とする考え方である。

「お金」は、価値を数値化する事で、価値を一元化し、演算を可能とする。
例えば、瓶の価値とジュースの価値を足したり。
労働時間の価値と交通費を足したりする事ができるようにする。

距離や重量といった物理的単位は絶対的単位だが、経済的単位は、物理的単位とは違い相対的単位である。
「お金」の単位は、財の量と「お金」の流通量と消費者の必要量との関係で定まる、相対的単位である。

貨幣価値は、その時、その人、その物の必要性が生み出す価値であり、普遍的価値ではない。
貨幣価値は相対的価値であり、需要と供給、通貨の総量によって定まる。
需要は消費力、供給は生産力に制約される。
消費量と生産量は有限だから貨幣の総量は、上に閉じていなければならない。
消費量と生産力は一定していない。

「お金」は、媒体で単体では効用を発揮できない。
「お金」が指し示す対象があって成り立つ。

「お金」は、交換価値を象徴している。
「お金」の流れには、反対方向の物や用役、権利の流れがある。

経済的価値は付加価値である。
所与の物に、労働や時間、加工、組み立て等によって付加された価値が付加価値である。
経済的価値とは一般に付加価値を指して言う。

経済的価値を発生させ、或いは、変動させる要因の一つ、時間である。
経済的価値は時間価値でもある。
時間価値というのは一定の時間経過によて発生する経済価値の差、変化を言う。
付加価値の一種である。
「お金」は、時間価値を生み出す。
時間価値は、「お金」を動かす力にもなる。

時間価値は、時間の関数として表される、

金利は時間価値を生む。
時間価値は、利益を生む。

利益は、「お金」の働きを表す指標であるが、「お金」の過不足を意味するわけではない。

「お金」の働きには、長期的働きと短期的働きがある。
「お金」の長期的働きとは、「お金」の効用が長期にわたって働く事である。
短期的働きとは、「お金」の効用が一定期間内(原則一年)、働く事である。

財の経済的価値の性格は、財を消費する時間に影響される。
例えば、食料の様に財が短時間で消費されるものと、家や自動車の様に、長時間かけて消費されるもの、土地の様に、基本的に半永久的に守秘されない物とでは経済価値の性格に違いが出る。

このような「お金」の性格に基づいて、経済の仕組みや貨幣制度は設計され、制御されなければならない。
経済の仕組みは、経済的効用に、働きに応じて、「お金」を組織的に分配し、経済的効用によって生産された財を、市場から支払準備として分配された「お金」を使って購入する事で成り立っている。
つまり、生産、分配、消費の働きを「お金」を媒体によって実現する仕組みといえる。
つまり、貨幣価値は単純に需要と供給で定まるのではなく。対極に、収入と支出、貯えがあって、その相互作用によって定まる。
需給が市場に影響されるのに対し、収支は組織的に決まる。
この二重構造が経済を複雑に見せているのである。

「お金」は、分配のための手段、道具である。
「お金」の役割を果たすための働きは、交換価値である。
「お金」の属性は、分配と交換を前提として形成された。

「お金」の働きと動きは、簿記によって規定されている。
生産工程における「お金」の働きと動きは、簿記によって規定されている。
計測時点は、発生、実現、完了の三点がある。

貨幣は、時間価値によって動かされる。
「お金」は、使えばなくなる。
「お金」は、使えば不足する。
「お金」を動かすのは、「お金」の過不足である。
「お金」を循環させるためには、余剰主体と、不足主体が存在しなければならない。
絶えず余剰主体と不足主体が存在しなければならない。
「お金」は、所得によって労働を経済的価値に変換する。

経済の仕組みを動かしているのは、「お金」の流れである。
「お金」の流れは、現金の流れ、キャシュフローをいう。
現金とは、現時点、その時点で、「お金」が指し示す交換価値を言う。
売り買い、貸し借りといった市場取引が「お金」の流れを生む。
「お金」の流れの裏側には、「お金」の流れの逆方向に流れる財の流れがある。
財の流れが実体的経済を成立させ。
「お金」の流れが、名目的経済を構成する。
財の働きを正の働きとすると「お金」の働きは、負の働きである。

貨幣制度を潤滑に運用するためには、
「お金」は、満遍なく社会の隅々まで循環させる必要がある。
「お金」は、絶え間なく、循環させる必要がある。
「お金」は、必要としている人に、必要なだけ供給されなければならない。
「お金」は、支払い準備として、事前に分配しておく必要がある。
「お金」は、経済活動と連動している必要がある。経済活動は、生産、分配、消費からなる。

以上の点を考えると、以下の仕様が必要とされる。
一、価値を一元化する 必要がある。
一、「お金」の総量の上限を制約する仕組みが必要となる。
一、「お金」の交換価値を保証する。
一、「お金」を生産する装置が必要がある。
一、「お金」を供給する仕組みを設定する。
一、「お金」を分配する装置が必要となる。
一、「お金」を流通させる仕組み必要がある。
一、「お金」を循環させる仕組み必要がある。
一、「お金」の量を制御する装置を設定する。
一、「お金」を予め分配する装置が必要がある。
一、経済的価値を「お金」によって計測可能な状態にする。

これらの仕様を実現するために必要な、「お金」の求めれれる機能は、
一つは、決済機能。交換価値の保証する必要がある。その時点の市場取引で定まった財と同値の「お金」との交換を保証する機能が求められる。決済機能は交換価値の現れである。
一つは、価値の保管。「お金」は、消費されない。消費できない事で価値の保管や蓄積を可能とする。
一つは、尺度となる事である。「お金」は、物や時間の数量と「お金」の単位(価格)を掛け合わせて経済単位を画定する。貨幣単位は、その時点そのじてんの市場取引で定まる相対的単位である。
一つは、演算機能。「お金」は、経済的単位を一元化して数値に置き換える事で演算を可能とする。
一つは、計測機能。生産量、消費量を計測可能すし。生産量と消費量を、自動的に調節できるようにする。

また、経済的価値を「お金」によって計測を可能にする。計測を可能とするために数値化する。

一つの経済圏は、一つの貨幣体系しか持てない。

「お金」を生産する仕組み

「お金」の本源は、負債である。つまり、借金である。
「お金」の発行機関が、借金をする事で「お金」は生成される。
「お金」は、何らかの実体的対象を担保する事で信用が付与される。
すなわち、何らかの実体的価値がある物と一対で生成される。

「お金」を生産するためには、実体から、名目的価値を分離する必要がある。

一般政府が提供する物や権利を担保にして、中央銀行機関が負債をする事で。
一般政府が担保するの権利の一つが国債である。
国債は、政府の国民に対する負債であると同時に資産である。
銀行券(お札、「お金」)は、発券銀行にとって負債、即ち、借金である。
政府は、国債を担保として金融機関から、「お金」を借り入れる。
一般政府が、実体的物を提供する事、負である「お金」に信用を付与する。
金融機関は負である部分を受け持つ。つまり、負債、借金をする。

「お金」を供給する装置

まず、「お金」をいかに市場に供給するかであり。
次に、「お金」をいかに市場に流通させるかを考える必要がある。

「お金」は、貸し借りによって市場に供給され、売り買いによって効用を発揮する。
貸し借りのよって供給する事で、「お金」の流通量や、流れを制御する事が可能とする。
また、「お金」の与信を機能を持たせる。つまり、「お金」に信用の裏付けをする。

「お金」の市場に対する供給は、中央銀行、或いは、政府が発行し、市中金融機関に貸し付け、更に、金融機関から、他の経済主体に貸し付ける事によって実行される。
金融機関から市場(他の経済主体)に向かって流れると流れた量と同量の債権と債務が生じる。
金融機関に向かって市場から流れる、即ち、資金が回収されると回収された量と同量の債権と債務が減少する。

「お金」を供給する機関が無制限に「お金」を供給すると、通貨の総量に際限がなくなる。
生産と消費が有限である以上、基準で「お金」に制限がなくなると、分配の基準にはならなくなる。
故に、「お金」の供給には担保が必要となる。
金本位制では、金を担保していたが、現在は、国債を担保する事で制限を設けている。

「お金」を回収する装置

「お金」の流通量を制御できるようにするためには、「お金」を回収するための機構、装置が必要になる。
「お金」を供給したら、「お金」を回収する装置が必要となるが、「お金」を回収するのは、供給する事よりはるかに難しい。

『お金』を循環させる場

「お金」を循環させ、物と交換する場が、市場である。
「お金」は循環し、物は一定方向に流れる。

「お金」を循環させ働きをするのは、「お金」の過不足である。
「お金」の補給と放出、貯蓄を繰り返す事で「お金」を市場に循環させる。

経済を循環させる役割を担っているのが、経済主体である。
経済主体には、生産主体、分配主体、消費主体がある。

経済主体には、物や「お金」の流れを整え、平準化することが求められる。
つまり、物や「お金」の流れを整流する事で、そこに。貯蓄、貯蔵の重要性がある。
その時、貯蓄、貯蔵が、重要な働きをする。故に、分配主体には貯蔵、貯蓄の働きも求められる。
貯蓄、貯蔵の働きには、保存機能も含まれる。
貯蔵、貯蓄には、短期的なものと、長期的なものがある。

貯蓄は物にも「お金」にもあるが物と「お金」には、根本的な違いがある。
物と「お金」の違い。
物は、腐ったり、劣化するが、「お金」は腐らない。

「お金」は、消費されない。消費されずに、常に再利用される。
なぜなら、「お金」は、消費されない事で、「お金」の価値を交換価値に特化する事を可能とする。
「お金」は、消費されないのに対して、財は消費される事を目的とし、前提とされる。

「お金」は、蓄積されると資本を形成する。

財(モノやサービス、権利)は、消費される事で経済的効用を発揮する。
故に、財は、基本的に、循環しない。時間がくれば、一方的に、廃棄される。
それに対し、「お金」の名目的価値は、腐敗も、損傷も、毀損も、破損も、壊れも、消滅も、焼失も、蒸発も、溶けたりも、劣化も、陳腐化もしない。

インフレーション、デフレーション、不況、恐慌等は、「お金」、貨幣的現象。
飢饉、地震、洪水、山火事、津波、事故、疫病、温暖化等は、物、物的現象。
失業や少子高齢、人口問題、都市問題、戦争、内乱、革命等は、人的現象。

大飢饉の時、大金を懐に餓死した商人がいたと言う。物と「お金」の関係を象徴した出来事である。

ハイパーインフレーションなどで「お金」が機能しなくなると、物々交換などの、物の経済が現れる事がある。要するに、経済に主役は「お金」ではなくて、現実に生活が成り立つ事なのである。

市場取引の総和はゼロに均衡する。
売りと買いの総和は、ゼロに均衡する。
貸しと借りの総和は、ゼロに均衡する。
経済主体の過不足の総和はゼロに均衡する。

経済主体間の取引は、相手がいて成り立ち、取引は、鏡像関係、対称的であるから、経済主体間の総和はゼロに均衡する。(ゼロサム)

「お金」過不足がゼロに均衡すると言う事は、過不足によって引き起こされる「お金」の現象は基本的に、振動であり、振幅が問題なのである。
振幅が大きくなりすぎると、経済の構造は耐えられなくなり、場合によると、破綻する。

「お金」は、収入から支出を引いた余りは貯蓄となる。
財は、生産から消費引いた残りは在庫になるが、在庫には、保存ができる物のと、できない物があり。
保存ができたとしても、一般に、倉庫代などの費用が掛かる。

市場は適度な競争が働いていなければならない。なぜなら、「お金」の単位、貨幣単位,単価、単位価格は、絶対的な単位ではなく、相対的な単位であるから、競争による相互牽制がなければ成り立たなくなる。

かといって、競争は原理であり、総ての経済現象に効く万能薬の様に考えたり、また、費用や利益を目の敵にして、何がなんでも削減しなければ気に食わない人もいるようだが、費用は分配の要であり、利益は、経済主体の働きの指標である。
闇雲に費用を削減してしまうと、分配が機能しなくなる。

なぜ、競争が必要なのかも考えもしないで、競争を絶対視し、規制を緩和してしまえ。
できればありとあらゆる規制をなくせと言うのは乱暴な話だ。
だいたい、規制があるから、公正な競争は保たれる。

現在の競争というと価格に収斂してしまう。しかし、競争は、価格だけに限らない。むしろ、本来、競争は質的な事である。
競争が価格に収斂したら、資本力のある者が圧倒的に有利になり、市場は荒廃してしまう。

あくまでも競争は、適正な価格や費用を導き出すための手段であって、絶対的な原理ではない。
独占や、寡占状態では、競争が働かなくなるが、過当競争も適正な競争が働かなくなる。
環境や条件の変化に応じって、政策を変えていく必要がある。

「お金」を分配させる装置

分配は市場ですると誤解している人が多い。
しかし、分配は市場だけで行われるわけではない。
分配は、予め、働きに応じて組織的に「お金」を分配し。
分配された「お金」を使って市場から財を購入する事で実現する。

「お金」を分配する装置は分配主体である。
分配主体は、主として「お金」に関わる主体である。
分配主体は、一般に生産主体と一体になって、生産と分配を制御している。
その主たる機関が法人企業と公的機関である。

生産と消費の非対称。
我々は、現実には、生産と消費が非対称であることを知っている。
非対称だから、飢饉が生じたり、大量貧乏などの現象が生じる。
生産された財が総て消費されるわけではない。
三面等価は「お金」の世界でのみ成立する。

また、生産人口と消費人口の非対称なのも知っている。
故に、少子高齢化が問題になる。
成人に至る前の物と高齢者は、自分で働いて所得を得る事が出来ない。
自分が働いて生活費を稼げる年齢は限られているのである。
働ける者が働いて得られる財を、総ての人口で、分け合はなければならないのである。
一人の人間が働いて生産できる財の量と稼げる所得の量の比率が鍵なのである。
働かざる者、食うべからずと言われても困るのである。

経済は、生産、分配、消費の三つの局面から成り立っている。
すなわち、生産した財を、必要としている人に、必要としている時に。必要としているだけ供給する。
それが、経済の仕組みの役割で、その際、鍵となるのが、いかに必要量を導き出し、生産の消費を調節するかである。その為の、補助機構として貯蔵(保存、貯蓄)がある。

市場経済で分配を実現するためには、予め、「お金」を、組織的に分配しておく必要がある。

「お金」の分配は分配主体が組織的に行う。
つまり、分配は、組織の問題でもある。
組織の問題とは、最低賃金、正社員、派遣といった雇用条件、労働時間等の労働条件、賃金や評価などの人事制度、失業保険、国民健康保険、年金といった社会保険制度、労働市場などの問題を言う。

「お金」は、支払準備であるから、全ての人に、予め、生きていく為に必要な資源が手に入れる事が出来るだけの額の「お金」が、配布されなければならない。
「お金」の分配を担っているのが分配主体である。
分配主体には、「お金」の流れを整え、平準化する機能が求められる。

市場経済とは、予め、支払い準備として「お金」を所得として配分し、事前に配分された「お金」を使って、財を市場から購入する事で、分配を完成させる仕組みで成り立っている。
それに対して統制経済は、中央の機関が生産と分配を統括し、計画的に分配をする仕組みである。つまり、基本的に、市場を機能させない。すべての生産は計画的に統御する。

ここでは、市場経済を前提とする。市場経済では、市場の需給によって、生産と在庫を制御する。
また、生産の働きに応じて「お金」を、予め、分配主体が組織的に分配する。

重要なのは、分配のための制度や分配主体が、人々の生活や人生に沿っているかである。
必要な時に、必要なだけ「お金」を、供給する事が、出来る仕組みに、分配構造が、なっているかが問題なのである。

人口には、生産労働人口と、非生産労働があり、自分の力で所得を稼げない人たちが大勢いるという事である。そういう人たちにも「お金」を配分しなければ、経済は成り立たなくなる。

労働には、消費労働と、生産労働があり。消費労働の多くは家内労働である。
家内労働は、非所得労働である。つまり、家内労働は「お金」を獲得できない。家内労働だけでは、自給自足しない限り、経済的に自立できない。
現在の経済体制は、「お金」がなければ生活ができないようになっている。その一つが税制度である。

所得を均す仕組み

何故、所得の再配分が必要なのか。つまり、何故、所得を均す必要があるのかである。

大前提は、全ての人に人間的な生活を営むの必要な資源を、市場から手に入れる事が出来るだけの「お金」を、予め、配布しておかなければならないと言う事である。

所得を再配分するのは、再配分しないと、大前提を達成できないからである。
再配分ありきではなく、再配分をなぜしなければならないかを知る事である。

「よくあの人は金持ちだ」という場合、稼ぎ(所得)がたくさんあると言う場合と、資産家だという二つの意味がある事を忘れてはならない。
所得の再配分といった場合、広義では、富の再配分も含まれる。そして、ここでは、富の再配分も含めた広義の再配分について検討する。

何故、所得の再分配が必要なのかを明らかにする前に、どのような原因で所得格差が生じるかを明らかにしておく。
一つは、自分で働いて所得を稼げない人がいる。自分で働いて所得を稼ぐ能力には、年齢が深く関わっている。年齢は個人の力では、変えられない。
一つは、格差の存在であり。格差を生み出す要因の多くは、先天的な事で、個人の力では是正できない事が多く深まれている。
一つは、貧困の存在である。人間的な生活をするために必要な所得がえられない人々がいると言う事実である。
一つは、災害や事故、病気など一時的、非常な出費を防げないと言う事。
一つは、寒冷地や、資源、交通の便、経験や知識、資格などの環境や条件の違い。
一つは、家族構成や扶養家族の差など消費単位や条件違い。
これらの要因の多くは、個人の能力では、是正する事が出来ない。

では、このような、所得格差は経済にどのような不都合を生じさせるか。
一つに、極端な格差の存在は、財の公平な分配を妨げる。
一つに、階級や差別の原因となる。階級や差別は人々の間に越えられない壁を作り、社会を分裂させる原因となる。
一つは、社会不安の原因となる事である。社会不安は、治安の悪化や暴動等を招く。
一つは、資本の不均衡、偏りを生む。このような不均衡は、偏りは、分配の不公平、不公正を生む。
一つは、富の偏在は、不労所得者を作る。不労所得者の存在は、経済の効率を著しく低下させる。

非生産労働というのは、自分で働いて所得を獲得できない人口のことを指す。

一般政府は、所得を再配分する事で、分配を均す働きがある。

「お金」は、分配の手段であるから、極端な偏りがなく、最低限の所得を確保する事が求められる。
この事が、所得の再分配の必要性である。

「お金」を活用して生活とを実現する装置

「お金」を最終的に活用するのは、消費主体、即ち、一般政府と家計である。
消費主体は、主として、の関わる主体である。

人々の生活の型は、消費の型として現れる。消費の形は、財の効用が働く期間のよって、制約される。
食料やエネルギーの様に日々消費される財と衣服の様に一定の期間効用を発揮する財、住居の様に超長期なわたって効用を発揮する財があり。
それぞれの財の消費の形に合わせて経済の仕組みは構築される必要がある。

消費は、個人の問題であり、コミュニティーの問題である。
コミュニティーも国といった公的なコミュニティーと家族のような私的なコミュニティーがある。
国の在り方、家族の在り方が、個人の生活を規制する。
その関係の中で自由とか、平等とか、福利を語らなければ実体的な意味がない。

「お金」も、国も、家族も、個としての人を幸せにすることを目的として存在するのである。

本来の姿は、消費に合わせて生産すれば効率的なのだが、生産には、時間が必要で、消費に合わせていたら生産が追い付かなくなる。
そこで、消費量を予測して生産をするのだが、困った事に、生産には波があり、不安定、不確実だと言う事である。

特に重要なのは、日々消費される食料やエネルギーで、食料の収穫量は、天候や季節に左右される。
そこで、重要なのは保存が可能か否かである。

消費には、公的消費と私的消費があり。公的消費と私的消費は主体が違う。
公的消費は、一般政府が主体となり、私的消費は、家計が主体となる。

公的消費は、公共投資を伴い、国家理念や都市計画に伴う。
私的生産主体と違い、市場経済の依らない。

一般政府は公的消費の主体であると同時に分配主体でもある。

私的消費は、生活の実体を実現する。
消費は、人の一生や生活を実現した結果である。
消費の在り方が経済の土台になる。

私的消費を安定させるためには、長期間、一定の収入が確保される事が前提となる。
「お金」を支払う事で、生活に必要な資源を、市場から調達する事で、市場経済は、成り立っているからである。

経済の目的は、実生活を成り立たせる事で、「お金」は、裏方、補助的手段である。「お金」は、生活を成り立たせる事が目的である。「お金」は、目的にはならない。この点を間違ってはならない。
「お金」は、負であり、負の空間を形成する。
実が主で、負は従である。すなわち、実質が主で、名目は従である。

私的消費主体は、労働力等のサービスや用益を売って「お金」を得って(所得)、獲得した「お金」を使って、市場から財を購入し、消費する事で生活をする。
先に、収入があって、その後、支出がある。収入から支出を指し引いた余剰な資金を貯蓄する。

経済において最終目標は、消費だと言うことを忘れてはならない。
消費とは、即ち生活を意味する。
生活とは、生きる為の活動である。経済は、生きるための活動を言う。

本来、経済の最終目的は、消費にある。
つまり、消費者が主でなければならない。
消費者の生活を成り立たせるために、経済の仕組みはあるので、生産をするためにあるわけではない。
生産は、消費者の必要性に依拠していなければならない。
その根拠となるのが需要と供給である。

経済とは、生きるための活動である。
消費者は、生産主体に、生産手段(労働力とか、資本、土地等)を提供し、その反対給付によって報酬、「お金」を獲得し、その「お金」と交換で市場から生活に必要な資源を手に入れる。

現代の経済体制においては「お金」がなければ、生活が成り立たないようにできている。

消費単位というのは、子供や高齢者のような非生産年齢人口も含めた、総ての消費者、個人である。
しかし、「お金」を分配する単位としては、総ての個人とすると、生産手段を提供して所得を獲得できない人には、「お金」を配分できなくなる。
一般には、生計を共にする集団を一単位として分配の単位を設定する。それが家計である。

家計は収入と支出の均衡、つまり、収支構造が肝である。文字どり家計簿である。

消費で重要となるのは、生産量と消費量の均衡である。
消費量によっていかに生産を制御するかで、そのために消費と生産をどう結び付けるかである。
消費と生産を関連づける場、ないし、仕組みが市場である。

消費と生産を結び付ける鍵は、必要性、需要。供給などである。

消費単位が稼げる額と、節約できる限界をどう均衡させるかが、経済を安定させる鍵となる。

「お金」を活用して財を生産する装置

財を生産するのは生産主体である。
生産主体は、に関わる主体である。

代表的な生産主体は法人企業である。

財の生産を担うのが生産主体。
生産主体は、市場から、原材料と労働力を仕入れて、装置、設備を使って財を生産する。
生産主体を動かしているのは、収入と支出、即ち、「お金」の出、入りである。

生産主体は、労働力、原材料を購入し(支出)、装置(投資)を使って、財を生産し、それを販売する事で、「お金」を獲得する(収入)。
「お金」は、始めに支出があって、その後に収入があると言う順になる。
その為に、最初は、資金を調達する必要がある。

生産主体の働きは利益によって計られる。

生産主体は、分配主体と一体となって生産と分配を担っている。
働きと分配を結びつける機構である。

生産や売上には波があるのに対して費用は確定的、特に、所得は固定的である。
それを整流する働きを生産主体には求められる。
つまり、不安定な経常的な収入に対して、常に一定なのが経常的支出である。
支出の多くは。所得であり。
所得は、分配の要であるから長期にわたって、安定的に確保し、平準化しなければならないのが、経済主体の宿命でもある。
収入と支出の不均衡を修正するためには、収支ではなく、「お金」の働きによって、「お金」の流れを制御する事が求められる。
その為の制度が、会計であり、仕組みが簿記である。

また、投資などの長期的資金の流れと運転資金などの短期的資金の流れにも働きに違いがある。
これらを整流する働きも、経済主体にはある。
これは、生産に関わる働きと分配に関わる働きの差から生じる齟齬である。
この差を調整するのも生産主体の重要な役割となる。
「お金」の長期的な働きと短期的働きは、区分して分析しないと、正確な「お金」の働きを、計測し、分析する事はできない。

「お金」の流れには、経常的運営に関わる短期的周期の流れと、投資などに関われる長期的周期の流れがある。この二つの流れは、分けて考える必要がある。なぜなら、「お金」の働きの性格が違うからである。

「お金」の働きと「お金」の流れは、区分して分析する必要がある。

一定期間の「お金」の働きを表しているのが、損益と貸借であり。
一定期間の短期的な働きを表しているのが損益である。

投資に関わる「お金」の長期的働きは別途、計測し分析する必要がある。

なぜ、生産主体と分配主体を分けて考える必要があるのかというと、生産と分配は目的も機構も違い、一緒にしてしまうと、どちらかの目的や働きに偏ってしまう危険性があるからである。

「お金」の流通を制御する装置

市場経済を成立させるためには、「お金」を、市場に流通させる必要がある。
また。「お金」を流通させるだけでなく、循環させなければ、市場経済は機能しない。
「お金」の流れを制御する機関が必要がある。「お金」の流れを制御するのは金融機関である。

「お金」の生産、供給、循環、制御を金融機関が担っている。

資金余剰主体から、資金不足主体へ、「お金」を融通する事で、「お金」を循環させる装置が金融機関である。

「お金」を循環させるという事は、回転運動、周期的運動をさせる事といえる。
その為には、一定の間隔、一定の幅で過不足を繰り返す事である。

「お金」を絶え間なく、潤滑に、社会の隅々まで循環させるためには、避けなければならないのは、
一つは、「お金」の滞留や淀み。
一つは、偏り。歪(ひずみ)。
一つは、「お金」の流れる道が、閉塞したり、詰まったり、狭くなる。
一つは、社会の階層化、或いは、市場の分裂。

取引を成立させる為には、場が必要であり、その為に市場が形成される。

市場が成立するための必要要件は、売り手と買い手、「お金」、商品が存在する事である。

税などによって所得を再配分し「お金」の不均衡を是正し、制御するのが、国などの公的機関である。

問題は、経済主体間で「お金」の偏りや不均衡が生じる事で、「お金」の偏りや不均衡は、「お金」の正常な循環を阻害する要因となる。

「お金」の偏りや不均衡を生む原因は、
一つは、生産と消費の不均衡。需要と供給の不均衡。
一つは、「お金」の滞留や淀み。
一つは、生産量の過不足の波。
一つは、分配の偏り。
一つは、貯えの偏り。
一つは、「お金」の流通量の不均衡。

経済の仕組みは、生産主体が、「お金」を使って原材料、労働力を仕入れ、財を生産し。
分配主体によって「お金」を分配し。
分配され「お金」で生活に必要な財を購入する事で人々の生活を成り立たせる装置といえる。
これらの働きを「お金」を循環する事で実現する。
「お金」の円滑の流れを維持する為に、「お金」の偏りや不均衡を是正する必要があるにである。

費用が経済の要であり、費用がなくなったら、経済は機能しなくなる。
適正な費用をどう確保するかが経済の要諦なのである。

費用が分配構造を、収益が生産構造を構築する。
生活が消費構造を形成する。

一番の問題点は、生産活動に従事する人口と消費活動に関わる人口が一致しておらず。
しかも、その関係、比率が一定していないと言う事である。
この溝をいかに埋めて、生産財を公平かつ、必要なだけ、必要とする時に、全ての人、消費者に分配するか。それが経済学の課題である。

生産にかかった総額と所得の総額と、消費に使った総額をいかに均衡させるかが経済の課題である。
そして、消費量が生活するのに十分な量だったか最終的な課題である。

「お金」が機能しなくなったら、「お金」を頼らない生活をする。
物の経済に立ち返る。
食料などの必需品は自給自足、物々交換。