私は、経済を分析し論じるにあたって以下の事を前堤とします。
経済体制は、哲学的であることが求められる。
即ち、第一に、この世界の存在を絶対的とする。
その存在の前提と自己の存在を絶対とする。
自己を、認識主体とする。
第二に、存在の絶対性は、認識によって崩壊する。
認識によって成立する人為的世界を意識界とする。
意識界は、不完全で、相対的である。
意識界を以後、意識とする。
このようにして成立した意識は、位置と運動と関係によって成り立つ。
第三に、人為的な制度、体制は意識によって制御される。
意識によって制御するためには論理的であることが求められる。
論理の根拠は了解可能性を根拠とする。
根拠は事実をもって検証する事が求められる。
事実に基づいて論理を発展、拡大していく。
自己と対象と基準の三点で分析をする。
分析の基本は比較対照であり、誤差と近似である。
予実績管理が典型である。
予算が基準(基準)。
分析者は、誰のために、どの様な視点、考え、目的で分析するのか(自己)。
予算で何をどうしたいのか(対象)
そして、分析の基本は比較対照である。
予算と実績の比較。
同様に、名目と実質比較。
生産量と物価と消費量の比較。
需要と供給比較。
生産人口の推移、所得の推移、生活費の推移、消費人口(総人口)の推移等が典型である。
予測とは、確かな事象を根拠にして、不確かな事象を推定する行為。
確かな事とは、過去、現在、生起した事象、あるいは、結果が出ている事象、実績。
つまり、予測は、過去、現在、起きたことからこれから起こる事を推定する事と言える。
予測、予定、予算は、今、確かな事と、不確かなことを篩い分けることから着手する。
予測には、定性的な事と定量的な事がある。
このように問題を立体的にとらえる事で現象論、対処療法的から脱して構造論、抜本的対策が立てられるようになる。
人口構成を基にして、国民が生存するために必要な財(消費量)を計算する。それを基準にして何が足りないか、何が余ってあるか、即ち、生産財の過不足を導き出す。
その上で、余剰な生産財を活用して不足している生産財を交易によって(武力によらず)調達する算段をする。
過不足を国家が直接的に管理するのが統制経済である。
直接制御するのではなく。
ゲームのように、経済の基盤を整え、市場や制度、ルールによって経済を間接的に制御しようと考えるのが構造経済である。
要は、都市計画のようなことである。
その為には、公がやる部分と民間が担う部分を明確に区分する必要がある。
経済の仕組みは、生産と分配、消費の三つの機構から構成される。
さらに、この三つを補助する機構としてお金の流れを制御する金融。
社会インフラ、所得の再分配、教育、国防、治安、防災を担う公共機関が加わる。
哲学は、存在論、認識論、論理からなる。
存在は他、認識は自、基準は論理に置き換えられる。
経済を哲学的に解析すると、消費が自で、生産が他、分配が市場に置き換えられる。
なぜなら、消費は、生活だからであり、目的だからである。
経済は、自分が生きる為の活動である。故に、経済の最終目的は自分を生かすことである。
消費は、経済の目的である。
生産は、手段であり、目的ではない。
消費が最終的に追求するのは質である。
消費は、当初、量的充足を目指す。
量的充足が達成されたら質的向上が求められるようになる。
消費を促進するのは欲である。
故に、経済の最終課題は、欲の制御になる。
現代の経済は生産に偏っていることが問題で。
だから、大量生産、大量消費に偏る。
質の追求が、疎かになるから。
使い捨て文化になる。
消費こそ文化であり。
環境保護も、温暖化対策も、節約を重視しない限り解決はしない。
貪欲、飽食を神は嫌う。
環境を悪くして苦しむのは人であり。
その原因も結果も人に帰る。
質を重視していたら多様になる。
個人を重視すれば多品種少量になる。
生活に本当に必要な物を時間をかけて製造するようになる。
労働の質の向上を目指すことになる。
量的拡大は質的変化を、もたらす。
品質も、細分化され、等級が生じる。
人は自分の考えに基づいて商品を選ぶようになる。
物を大切にして生涯使うようになる。
いいものは親から子へ、子から孫へと引き継がれていく。
消費にも効率がある。
それは生産の効率の対極にある効率だ。
量より質を重んじる経済である。
家具も、長い時間使いこむことで価値を高めていく。
消費は文化であり、道徳である。
大量生産は、品質を均一にし、標準化する。
人力を排除する。それは、分配の場から人を遠ざけることになる。
大量生産方式は、人の技能、個人差を否定する。
人間性を排除する。
消費の必要性、あり方から、生産を制御する事で経済を本来の姿にする。
それが経済の仕組みに求められることである。
人として幸せな生活、一生を送る為に必要な資源や要素は何か。それが、経済を考えるうえで一つの目安となる。
結局、経済は、人間をどう定義するかにかかっている。
自己の存在を無視し、唯物論的に人を統計的対象として定義できないと、人の自律的意思を否定することになる。
収入は生産の構成を反映し、所得は、分配の構成を反映し、支出は、消費の構成を反映する。
極端な所得格差は、生産と消費の構成を均衡させなくなる。
生産と分配は、労働人口を反映し、消費は、総人口を反映する。
自分の前提と定義。
経済において、自己の立ち位置は、生活の場、即ち消費にある。
生活の場とは自分が生きていくための場である。
自己の視座で経済を見ていくと家計が基礎になる。
人間以下にしていくて行くか。
何を守って生きていくか。
それが、自己の経済である。
消費の実体は生活にある。
消費というのは生活である。
先ず、生きていく上に最低限必要な資源を見積もる。
その上で、人というのをどのように考えるかを明らかにする。
文化的で人間らしい生活おくる為に
例えば、教育水準とか、生活水準。
また生計を支える要素。物価や所得水準、家族構成。
それから人生設計。
つまり、ファイナンスプランやライフプラン。
国の福祉制度。年金や介護制度など。
つまりは、経済とは人間の一生、生き様を考える事なのである。
私は、人である。
私は、日本人である。
私は、生きていかなければならない。
私の力には、限りがある。
私は、一人では生きられない。
私と他人は違う自己を持つ。
私には、父と母がいる。
私は、神を信じている。
私は、特定の宗教団体には所属していない。
私は、個人主義者である。
私は、自由主義者である。
私は、民主主義者である。
私は、科学者である。
私は、全知全能にはなれない。
私は、全知全能ではない。
私は、日本人である。
私は、男性である。
私は、実業家である。
私は、為替の動向、石油価格の予測、物価の予測、金利の動向、景気の動向、財政の状態について知りたいと思っている。
基準の前提と定義。
人それぞれ、できる事とできない事がある。
自分がわかっているからと言って、同じように他の人がわかっているわけではないし。
自分ができるからと言って、他の人ができるわけでもない。
反対に、自分がわかっていないからと言って他の人もわかっていないとは限らないし。
自分にできないからといて、他の人もできないとは限らない。
それに、自分だっていつでもできるという訳ではない。
年をとると、若い頃できたことが、できなくなる事も増えてくる。
人は、自分の限界の範囲の中で生きている。
時間的限界、空間的限界、能力的限界の中で生きている。
それが、自分が生きられる範囲なのである。
その境界線の中で人は生きている。
その限界が自己と他者とを分かつ。
それが分別というもの。
何がわかっていて、何がわからないのか。
何が確かで、何が不確かなのか。
真っ先にやる事は、今確かな事と、不確かな事を、仕分ける事。
自分と、基準と対象それぞれに、確かな事と不確かな事がある。
なかでも、一番わかりにくいのが自分の事なのかもしれない。
自分の事は、わかっていないのに、わかったつもりになって大前提としてしまう。
それが間違いの元になる。
それぞれ、何ができて、何ができないかを明らかにする。
自分に何ができて、何ができないのか。
自分は、今、何がわかっていて、何がわからないのかを、知る。
そうしないと、みんなと一緒に仕事ができない。
口が裂けても、自分は分からない、できないと言えない者がいる。
それでは、世の中を生きていく事はできない。
経済とは、生きる為の活動。
経済の基本は、生きていくために必要な資源を生産、調達し、消費する事。
生きていくために必要な資源は。衣食住。
人として生きていくための要件定義をすると。
人は、神を超えられない。
人は、神にはなれない。
人は生物である。
人は動物である。
一つは、生きる為の活動。
食べて、寝て、排泄する。
一つは、身を護る為の活動。
一つは、種を残すための活動。
一つは、集団を維持するための活動。
事実に基づいて経済現象を解明していくことが原則とする。
先ず、原点に返って考える。
経済は、生きる為の活動と定義する。
故に、生きる為の何が優先されるか、そこから経済の本質を考えていく。
「お金」は、分配の手段であって、根本原因ではない。
生きる為には、まず、食べられるようになる。
次に、住む場所を確保する事である。
暑さ、寒さを凌げて、外敵から身が守れるところを用意する事が求められる。
次に、衣服である。
住む場所を用意するという事の中には、外敵から身を護る事が含まれる。
お金ではなく。経済の根本は食料を確保し、住む所を確保する。
この点を原点にして、その上で「お金」の効用を考える、そうしないと「お金」に惑わされる。
「お金」は、分配の手段で、手段として重要なのである。
第一に、総ての国民が生存するだけの食料を調達する事が最低限求められる。
必要量を確保するだけでなく、分配も保証されなければならない。
必要なだけの量を確保するだけでなく、必要とする人、総てに行き渡るように手配することが求められる。
必要な量が確保できなければ餓死する人が出る。また、一般に国民は好戦的になる。
公平に分配されないと治安が悪くなり、最悪の場合内乱になる。
国民の生命、財産、そして、権利、国家の独立を守る事が第一義だという事。
そのために「お金」をいかに活用するか。
現在は、衣食住だけでなく、エネルギーや情報も欠くことのできない資源になった。
ただ、情報は常に、統制される危険性がある。
人の力には限りがある。
人は、一人では生きられない。
人は、一人では種の保存ができない。
子を生み育てるためには、配偶者を必要とする。
経済が成り立つためには適正な人口が維持されなければ、種の保存も経済も成り立たない。
適正とは、過剰でも、不足でもない状態を指す。
人の価値観や能力、性格は人それぞれである。同じではない。
人は群れる。
人は、集団生活をする。
人は、組織を作る。
なぜ、集団を組むのか。
外敵から身を守るためである。
何故、国防にこれほど、お金をかけるか。
軍事費に対する考察は避けてとれない。
国民を餓死させても軍事に金をかける。
まったく非生産的で、破滅的なのに。
外敵から身を護るというのは、動物として本能的だという事で、何から、何を守るか。
この点を明確にして費用対効果を計算し、重点的に配分する必要がある。
さもないと、国防費は際限がなく膨れ上がる。
組織は、分業によって成り立っている。
分業が、組織を進捗したともいえる。
経済は、生産と分配と消費からなる。
経済主体には生産主体、分配主体、消費主体がある。
消費には、周期と消費時間、期間がある。
周期、時間、期間は、消費財によって異なる。
生産には、周期と生産時間、期間がある。
周期、時間、期間は、生産財によって異なる。
例えば、食料は、日に三度、消費される。
家具や、自動車などには、耐用年数がある。
消費財や生産財の周期と期間が、経済的価値に時間的働きをもたらす。
また、現金の収支にも周期がある。
すなわち、価値には、長期的働きと短期的な働きがある。
消費財や生産財、現金の収支の周期が、経済に周期性をもたらす。
名目的価値は、市場取引によって定まる価値。
実質的価値は、そのもの自体がその時点で計測される価値。
市場取引にも周期がある。
市場価値には時間差が生じる。
経済的価値には、質と量がある。
量的拡大は質的変化をもたらす。
量的に満たされると質の向上が求められる。
質的向上は、質の細分化をもたらす。
量的拡大は、質的変化をもたらす。
単位消費量を、一定していると仮定して、経済の変動を観察すると貨幣の本質が見えてくる。
経済の基本は実質である。
人口も単位消費量も大きく変化していないのに、物価が大きく変動するのは、貨幣的現象と思っていい。
実質を重んじながら、貨幣の動きをいかに制御するかが経済の課題で。
まず、どの様な経済状態を望んでいるのかを基準とする必要がある。
財の適正配分をどうするかで。
財を重要度で仕分けしておく必要がある。
生産の場と消費の場が分離したことで分配の場が形成された。
かつてのリーダーは、分配を仕切っていた。
原始的社会は、生産の場と消費の場は一体だった。
分業が深化するにつれて、生産の場と消費の場が分離し、やがて乖離した。
生産と消費の場が乖離することに従って、分配の場が派生する。
分配の場は市場に発達していく。
なぜ、生産と消費の分離を取り上げたかというと分配の場として市場の成立と分配の手段としての「お金」本来の効用を明らかにするため。
生産と消費の分離が進むことで、市場が成立し、分配の手段として「お金」の役割が重要になる。
「お金」の本来の効用を理解するためには、その働きを知ることが必要だと考える。
単位消費量は、一定していると仮定すると、現代の経済的現象は貨幣が引き起こしていると考えていい。
「お金」の働きには、以下のようなものがあります。
- 支払いを準備する
- 交換の手段
- 分配の手段
- 生産と消費を関連付ける
- 価値の一元化
- 価値の尺度
- 価値の保存
- 価値の数値化
- 価値の名目化、抽象化、象徴化
- 経済的価値に流動性を持たせる
- 経済的価値を匿名化する
これらの働きにより、「お金」は市場経済の中で重要な役割を果たすようになる。
市場が成立することで、生産者と消費者が「お金」を介して取引を行い、分配が実現される。
「お金」は、ほんらい、分配の手段だが、「お金」のもつ性格から、分配の手段だけでなく、他の働きを派生させた。
その働きは、一つ、債権と債務で。債権と債務は資産と負債を生み出す。
一つ、貨幣は、私的所有権を基本として成り立つ。故に、私的所有権を生み出す。
一つ、金融。「お金」は当然、お金を流通、制御するために金融機関を生み出す。
一つ、所得。支払い準備として所得が必要となる。所得の在り方は格差の原因となる。
生産労働と消費労働(家内労働)、賃金労働と非賃金労働。男女問題など。この考えかとを間違うと主旨高齢化が進捗する。
消費単位を個人とするか、世帯とするか。
一つ、貯金。「お金」の価値は保存され、蓄積される。「お金」は蓄積されると資産を形成し、持つ者と、もたらざる者の差が生じる。貯金は、金利を生む。金利は時間価値を形成す津。時間価値は格差を生む原因の一つである。
一つ、借金。紙幣の根源は、借金だという点を忘れてはならない。借金は金利を生む。
借金は債務であり、返済の義務が生じる。現代社会は、借金で成り立ってあると言って過言でない。
一つ、損益(利益)。「お金」は、収支の関係を成立させる。
収入と支出は一致しない。基本は残高である。
貯金と借金は、長期的働きの要因となる。
収益と費用は、短期的働きを表す。
一つ、税金。税は金納されるようになる。税が金納される事で経済的価値が貨幣価値に一元化される。
一つ、為替。貨幣は通貨圏を形成する。
一つ、有価証券。「お金」と同等の働きをする証券が成立する。
一つ、市場。「お金」は、分配の場としての市場を発達させる。
売買とは所有権の受け渡し。
貸借とは、権利の与える行為。
「お金」がある事で成立する。
つまり、売り手と買い手、市場、「お金」と財によって構成される。
一つ、名目と実質。「お金」は、名目的価値と実質的価値を分離させる。
一つ、「お金」は、経済的価値を一元化する。
一つ、会計。「お金」は、固有の計算制度として家計を成立させる。
一つ、資本。「お金」は、会計的概念として資本を生み出す。資本は、資本家を生む。
これらの働きが分配という働きを弱める事になります。
債権と債務や私的所有権の働きは分配に別の働きをもたらせる。
財の偏りや、格差を生み出す原因になる。
これらを是正するために所得の再配分が必要となる。
前提、生活を維持するために、最低必要量を確保できるだけの資源と所得が保証されている。
消費者に分配する手段、仕組みが保証されている。
一つ、生産量。生産者数、供給、生産力。
一つ、消費量。人口、需要。単位消費量。
一つ、通貨流量。需要と供給を均衡させるのに適した通貨量が維持されているか。
一つ、所得。失業率。最低限の生活する事の出来る所得を得る機会がすべいぇの人間に与えられている。
一つ、市場環境。適性な価格を維持できる環境ができているか。適度な競争原理が働いているか。
一つ、税率。所得の再配分と公共事業を可能とする税金の徴収ができているか。
一つ、金利。時間価値、付加価値を維持できる金利が設定されているか。
日単位、月単位、年単位、一生単位に必要とされる「お金」と物の総量。
生産は収入と支出、収益と費用。
収入は生産財を売って得る収入。(私的収入)
税収。(公的収入)
借入金。
金利、配当、地代家賃等。
支出は経費、投資、給付などの所得の再配分等。
借金の返済。金利。
生産主体は生産財の性格から、企業法人、政府、金融に区分される。
生産は仕事の場である。
仕事は、極めて、論理的で、プログラムやアルゴリズムと同じ構造、形を持っている。
先ず、論理を成り立たせている前提。
そして、導入部分、論理の展開部分、そして、終結部分からなる。
分配は、労働と権利と対価の関係によって成り立っている。
労働や権利、対価は収入の源になる。
収入は、賃金、地代家賃、儲け等から構成される。
また、権利を貸す事によって得られる収入がある。(金利収入や配当収入、地代家賃等)
支出には税金が含まれる。
分配は、働きに応じて支払手段である「お金」を組織的に配分し、配分された「お金」を支払って生活に必要な生産財を市場から手に入れる。
政府は、生活に困窮する国民が出ないように所得を再配分する。
金融機関は、必要に応じて資金余剰主体から資金不足主体へ「お金」を融通する。
消費経済を確立する必要がある。
現在の経済は生産の効率ばかりに偏り、消費の効率が軽視されている。
生産の効率は、量を重視するのに対し、消費の効率は、質を重視する。
生産の効率ばかりを重視すると量に偏る傾向が生じる。
その結果、大量生産、大量販売に走る傾向がある。
また、経費の削減が第一命題となる。
必要性も軽んじられる。
それに対し消費では、質が重視されることになる。
消費では、必要性が重要となり、一人ひとりの個性に合わせる事が求められる。
その結果、多品種少量生産となる傾向がある。
また、質の高い消費を維持するためにはそれに見合う所得と雇用が求められる。
故に、生産と消費をいかに均衡させるかが、経済の一番の課題となる。
この均衡を保つために、一方では、経費削減ともう一方で雇用と所得の維持が求められる。
この調停が分配、即ち、市場と分配主体の役割となる。
分配は、所得の配分と財の購入という二段階で行われる。
消費は、所得と生活費(支出)から構成される。
その意味で、所得と生活両面から消費は考える事が求められる。
消費主体は、家計からなる。
人には各々固有の生活圏を持つ。
消費単位は個人である。
個人は集まって世帯を構成する。
消費の効率化を検討するためには世帯をどのように類型化するか。
消費、生活設計、人生計画をどのように考えるかが基礎となる。
また、非賃金労働である家内労働、(家事、育児、介護など)をどう評価するかがカギとなる。
家内労働の外注化は必ずしも消費の効率化につながらず、かえって質の低下、大量生産的手段に偏る傾向がある。
消費こそ人の生き方に直結しており、思想的なのである。
消費を考えるのは、人の一生をどうとらえるかという事である。
消費の場というのは、生活の場を意味する。
生活の場は、家族の場であり、夫婦の場であり、育児の場であり、介護の場である。
消費というのは生活である。目的でもある。
人は、結婚し、家族を持つことを目的とし、家を建てる事を目的とし、学校に行く事をも目的とする。
それらの目的は生活の場でこそ実現する。
また、生活の場は、生、病、老、死の場でもある。
経済は生きる為の活動と定義します。
そして生きること突き詰めると、幸せとは、豊かさとは何かを追求する事に尽きると思うのです。
欲を否定はしません。
欲に負けて、自分を制御する事ができなくなるのを恐れるのです。
一体全体、人は、何をどれだけ、必要としているのか。
自分一人生きていくためなら、自分が雨露を凌げるだけの家があればいいので、何百室も部屋のある豪邸など空しい。
一人の人を幸せにするのに精一杯なのに、何十人もの愛人を持つ余力なんてないし、必要でもなく、不可能な事を望めば、幸せは遠のいていく。
満ち足りる事を知れば、豊かになる事は難しくない。
足らざるは貧なり。
経済は、お金がすべてではないし、お金だけで測り知れることでもない。
単純に価格だけの問題ではなく。何にコストをかけるかも、重要な課題でもある。
一方で高層マンションや空き家が増えているのに、他方でホームレスであふれている。
生産力だけの問題ではない。
経済を考える時、単に、生産や分配、消費という事だけではなく、戦争や略奪、犯罪、力による支配、奴隷といった事の影響を排除できない、
今、日本の経済が、一見、上手くいっているように思えるのは、日本が物不足に落ちいていない、最低限必要とする資源が確保されているだけの事で。
今から、八十年前、戦争直後に、物資に不足して餓死する人や家のない人が沢山いた。
暴力的な手段、戦争や犯罪、略奪が横行したので。いつまでも、そのような状況が続くという保証はない。
現に、戦争や飢餓に苦しむ国はいまだに存在し、人身売買もなくなってはいない。
事実を直視しないと、本当の幸せは来ない。
幸せというのは明日の食べ物を心配しないで、安心して、家族を養う事の出来る環境があって実現する。
そうなると、経済とは、食べる物や着る物、住む所に心配しないで、なおかつ、戦争も犯罪も災害から守られている環境を作り、それを維持する事と言える。
そして、それを追求する、つまり、人々の幸せを追求するのが経済の目的と言える。
その為の手段として、お金も、国も、家族もあるのである。
経済の仕組みは、分配の構成を通じて、生産と消費を調節する仕組み。お金はそのための手段。
生産と消費をいかに均衡させるかが分配の仕組みに求められること。
故に、最低賃金や、所得の再配分がはかられる。
ただ、だからと言って、生産、分配、消費の関係を切り離すことは、システムとしての整合性を失わせることになる。
生活に必要だから生産をするのである。
生活に必要な収入を得るために働くのである。
かつては、生産と消費の場は一体だった。
それが、分離した後、原形は消費の場に引き継がれた。
それは、消費の場が生活の場だからである。
大家族主義から核家族、個人と推移していて、その変遷が少子高齢化の背後にある。
大家族制度では育児や介護は家族が分担して担っていた。
大家族制度では家族が社会の最小単位だったのである。
家族というのは本来、運命共同体なのである。
家族は、生きていく上で必要な物を分担し、助け合って生産し、生産したもの分配する事で生きてきた。
子供も一定の年齢に達したら、家の仕事を手伝わされた。つまり、子どもは労働力だった。
現代社会は子供を労働力とみなさない。
単なる扶養家族である。だから多産を望まないし、家計に子供は寄与しない。
子供の稼ぎを生活費に充てたら虐待とみなされかねない。
子供は、収入に寄与しない。
大家族制度時代には女性を経済的に自立できないようにして、家内労働を一方的に押し付けてきた。
女性は家事だけでなく、育児や介護を一手に引き受け。さらに農家や、商店では貴重な労働力でもあった。
女性の犠牲によって、社会の福利厚生が不備でも。家計は回っていけたのである。
それは、女性が社会進出した今でも、多くの面で引きずっている。
核家族化すると収入は、亭主が収入で家族全員の生活費を賄う事になる。
それが、個人が中心になり、女性の社会進出が進むと、共稼ぎが一般になり、家族は共同体としての機能を失う事になる。
それに伴って、育児や介護が家族、家計から切り離されつつある。
厚生労働省では「世帯構造」を、次の分類する。
(1)単独世帯
世帯員が1人だけの世帯をいう。
(2)核家族世帯
ア 夫婦のみの世帯
世帯主とその配偶者のみで構成する世帯をいう。
イ 夫婦と未婚の子のみの世帯
夫婦と未婚の子のみで構成する世帯をいう。
ウ ひとり親と未婚の子のみの世帯
父親又は母親と未婚の子のみで構成する世帯をいう。
(3)三世代世帯
世帯主を中心とした直系三世代以上の世帯をいう。
(4)その他の世帯
上記(1)~(3)以外の世帯をいう。
このような分類は、家族の構造の変化を表している。
このような家族の変遷を理解しないで、保育園を増やしても子供は増えない。
経済的問題が背後にあるし、介護も同じ。
核家族が進めば消費と質は低下する。
個人所義の徹したら家族は崩壊する。
介護は、モラルから、制度施設の問題に転化する。
また、家族という共同体が崩壊し、単独世帯が増えると、それまで家族が担ってきた役割を国や社会が肩代わりしなければならなくなる。
それが少子高齢化の本質である。
ドイツの社会学者テンニースはゲマインシャフトからゲゼルシャフト移行という形でこの辺の変遷を述べています。
家族の問題を総て「お金」で解決できると考えるのは危険で、育児や介護は個人の力では解決できない。
一方で財政負担の増大、介護制度や年金制度の破綻、他方で、ニートや独居老人、孤独死の増加という事に表れ始めている。
最終的には人としての倫理、道義心に行き着く。
唯物論的な発想では、問題をこじらせるだけであり、私的倫理観と社会の補助という両面から取り組むべき事でただ経済的合理性から追求するだけでは、問題の抜本的解決は望めない。
社会や国家の役割、ひいては人間の一生とは何かを問い詰めている。
だからこそ、人の幸せとは何かを常に問い続ける事が大切なのである。
さもないと、幼児期、幼少期、老齢期という最も人の助けを必要としている時に経済的に成り立たなくなり、見捨てられる結果になる。
経済は、人の幸せを実現する事を目的とすべきだというのはこの点を根拠としている。
人間が困窮した時、何が一番求められるのか。それは、「お金」ではなく。人の助け、情けなのである。
また、男女の不平等の根底にも消費の軽視が隠されている。
無論、女性が経済的に自立する事は重要ではあるが、 今女性が担っている仕事を蔑ろにして社会に、働きに出る事のみを推進する事は女性の男性化を意味する事になりかねない。
それよりも、女性が担ってきた仕事や役割の再評価こそ女性の地位向上につながると思われる。
家内労働をいかに評価し、女性やこれまで女性の仕事されてきた仕事の社会的、経済的評価をいかに高めるか。それが第一の課題である。
そうしないと出産、育児における母親の役割が不当に低く評価されてしまう。
外食では得られない食育や、愛情が介護に果たす働きといった人間性が排除されてしまう。
対象の前提と定義。
前提として、日本は、資本主義である。
日本は、自由主義である。
日本は、個人主義である。
日本は、私的所有権を前提としている。
日本の政治体制は、民主主義であり。
経済は自由貿易を基本としている。
日本は法治国家である。
対象は、日本経済。
対象は、日本経済のデータ。
資金循環表、国民経済計算書、産業連関表等。
注。国家が生産と分配を一元的に管理していこうとする体制が共産主義。
お金に惑わされてるのがいけない。
お金を除いて考えると結構本質が見えてくる。お金が不必要というのではありませんが。
ただ、お金は手段であって目的ではない。
手段が目的化する事で、本来の目的がわからなくなっている。
例えば、家を建てるのは何が目的かを、お金抜きで一度考えてみる。
そうすると今の、建築業界の異常さが見えてくる。
その歪みがバブルの原因でね。
空き家が増加している一方でタワーマンションが増えているのは正常なのか。家が余剰なのにホームレスがなぜ増えるのかとかね。
都市計画が土台になければならないけど、利権が絡むと都市計画本来の目的が失われてしまう。
家は豪華なのに、家族が崩壊するのはなぜか。
飢え死にする人がいるのに、なぜ、核兵器やミサイルを開発する必要があるのか。
神が本当にそれを望んでいると思うか。
そういう事を突き詰めていくと経済の本来目指すべき方向が見えてくる。
宗教的教義や思想にとらわれることなくですね。
神は人が幸福になる事を望んでいるとして。
では神が望む幸せとは何かを、事実に基づいて検証すると。
どんな人生が本当の豊かさなのかと。
僕には、安心立命。
生活の心配がない。困窮しない。
平和で穏やか、争いのない。
家族隣人が仲良く、犯罪がない。
そんな生活を望んでおられるのではと。
そこにこそ、経済が目指すべき方向があると私は考えるので。その為の手段としてお金がある。