秩序なき自由なんてない。自由人は、法と秩序を愛する。
自由とは、一部の反体制主義者、反権威主義者の言うような不服従とは違う。彼等は、何でも、反対すれば自由になれると思っている。反対をしても自由にはなれない。なぜなら、そこに意志がないからである。なぜ、意志がないのか。自己がないからである。故に、反体制、反権威主義者は、個人主義、自由主義の対極にいる者である。自由主義者があたかも反体制主義者に見える事があるのは、どのような相手でも自分の信念に反する行為を強要された時、屈することなく、自分の存在をかけて戦うからだ。意見が対立するのは、結果であり、目的ではない。
自由主義は、個人主義と法治主義を基盤として成立している。そして、個人主義は、個人の内面を、法治主義は、個人の外部を規定しているのである。どちらを優先するかではなく。自由主義とは、この二面性を併せ持つ思想でなのある。
個人の意識は、相対的である。法や掟がなければ、自己の規律を比較検証する基準がない。また、自己以外の他者の内面の規律を知ることはできない。この様な前提に立つと自由主義者は、必然的に、法治主義者になるのである。
法や掟を不自由なものと感じるのは、社会の法と内面の意識が相反するか、矛盾した時である。人間の内面を律するのが善であるなら、人間の外面を律するのが法であり、掟である。この善と法とを矛盾なく一致させようと言うのが自由主義である。
相手を殺さなければ、自分が殺されるような法があり、殺人を悪とする価値観を持っていたら、外的世界と内面の世界は対立する。だからといって、価値観を使い分ければ、自己の同一性は保てない。現実に、徴兵された兵士は、この様なジレンマに囚われる。この様な世界では、自由は保証されていない。故に、自由主義者は、自己と社会の両方に働きかけてこの様な矛盾を解消しようとする。自由人は、常に、その正義の刃を内に向けるか外に向けるのである。法を正すのか、自分を正すのか。自問自答し続けるのである。
だから、自由主義者は、自己変革と社会変革を同時に行う必要があるのである。
ただ、それは、善と法が対立しているからであって善と法が対立していなければ、変革をせず法を熟知すればいい。対立しない限り自由主義者は、遵法なのである。なぜなら、法がある方が、内面の規律と外部の法との整合性を取りやすいからである。自由主義者は、もともと法治主義者なのである。
自分の力で生きる。自己のないところ、主体性がないところに自由はない。自立することを意味するのであり、最初から逆らう事を目的としているわけではない。自律的な意志がなければ、矛盾や対立はいつまでも解消されない。逆らえば、逆らうほど、制約が多くなり不自由になる。
人が生きていく上には、制約や拘束が多い。多くの人は、この様な制約や拘束から解放され自由になりたいと思っている。では、制約や拘束がなくなれば、人は自由になれるとであろうか。スポーツを思い浮かべてみればわかる。人は、ルールがあるから思い通りのプレーができる。ルールは、制約や拘束である。ルールがなければ、スポーツ自体が成り立たない。ならば、制約や拘束がなければ自由になれないという事になる。確かに、ルールがなければ自由なプレーは保証されない。自由とルールは対立したものではないのである。